画家としての一面を持つフジコ・ヘミング

奇跡のピアニストが描く優しい絵画


前回、世界的ピアニストであるフジコ・ヘミング氏のコンサートについて記述したのですが、彼女の画家としての側面を持っていることについては、ファンなら知ることであれど、一般的にはあまり知られていないことのようですね。

そこで、今回は改めて、フジコ・ヘミングさんの画家としての一面についてを投稿しようと思います。

さてこちら、前回アップした写真ですが、ご存知ない方にはピンとこないようだったので、再掲します。


先月(2023年6月)仙台で開催された、フジコ・ヘミング ピアノソロ コンサートの会場で購入した物品ですが、これらCDやDVDの挿絵も含めイラストは全てフジコ・ヘミングさんによるものなのです。

フジコ・ヘミングさんのご両親は彼女が幼い頃に離婚していますが、ピアニストであった母親(日本人)と、画家で建築家だった父親(スウェーデン人)の元に生まれ、正に受け継がれた才能は類い稀なもの。
幼少期からピアノの技術を研鑽するとともに、絵を描くのが好きで、これまでたくさん描きためてこられ、それらの絵画作品がCDなどのジャケットにも使われているのです。
デザインや装丁もご本人のこだわりによることも多いそうです。

フジコ・ヘミング ピアノコンサートで購入した絵はがきのセット

絵本の挿絵も手がけられています。
素晴らしい作家さんとのコラボレーションによる作品は、子どもにはもちろん大人の心潤す逸品としても本当に素敵です。

フジコ・ヘミング氏の挿絵による絵本「ねことワルツを」と「青い玉」
フジコ・ヘミングさんの挿絵による絵本「ねことワルツを」と「青い玉」

ところで、描かれている絵には猫が多いことにお気づきでしょうか?
これもファンなら知ることですが、フジコ・ヘミングさんは大の猫好きで、たくさんの保護猫と暮らしています。
収入を得るのは、猫ちゃんたちのためでもあるそうです。
この2冊の絵本も猫との暮らしがテーマになっています。猫好きさんへのプレゼントとしても喜ばれそう。

ねことワルツを」(出版:福音館書店)の文を手がけるのは詩人石津ちひろさん。

韻を踏んだ軽快な表現の文章が楽しく、中には早口言葉のようなものもあり、子どもと一緒に楽しみながら読めることうけあいです。

このタイトルにもなっている「ねことワルツを」は、フジコさんの幼い頃の体験に基づいていて、お父さんと踊る別れのワルツを楽しくも儚い詩として綴られていて、グッときます。

青い玉」(出版:文化出版局)の文は沓沢小波(クツザワサナミ)さんによるもので、一人暮らしのおばあさんと一匹の猫の幻想的な物語です。

日英対訳版として発行されていて、海外の方にも読まれており、この収益金は、フジコさん沓沢さんのお二人によって、動物愛護団体に寄付されるそうです。


私、先日のコンサートでこの「青い玉」を購入して初めて知ったのですが、沓沢小波さんは、ここ宮城県ご出身の元幼稚園教諭でいらして、柴田町にて工芸家としてご活動されてきたそうです。

共に猫好きというご縁らしいですが、古布工芸家としてフジコ・ヘミングさんの舞台衣装も手がけてもいらっしゃるそうで、単なるいちファンながら、お二人の相性が良いであろうことは想像に難くなく、そのお二人による絵本が素敵なのも、頷けます。

それにしても、自分の地元である宮城県にこんな素晴らしい方がいらしたなんて。
知るのが遅かったのは悔やまれますが、同じ県内に住む誇れる方の存在を知り、とても嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

それでは、最後にフジコ・ヘミングさんの公式HP及びYouTubeチャンネルより、心が安らぐ動画を。
飾らないフジコさんの短い語りと、素晴らしい演奏がギュッと詰まった価値ある5分間です。
曲はショパンの『エオリアンハープ』。猫にも癒されます。

2020年6月、コロナ禍の中、ご自宅からフジコ・ヘミングさんが送られたメッセージ

この動画は、東京のご自宅で撮影されたそうですが、パリにもお住まいがあるフジコさん。
そうそうたる画家やピアニストが過ごしたパリにご自身も住めるのがとても幸せなのだそうです。
そして今年、いよいよ私もようやくパリ・フランスへ旅ができます。
私の場合、滞在期間はほんの数日だけど、航空券は取得済み、コロナ禍があけたらまずはフランスへ行くんだという願いの現実も目前です。
パリのフジコさんのお気に入りの場所に行ってみたいな、など、もはや現実可能な想像をするだけでもハッピーです。
私の幸せ感度を上げてくれるアーティストの皆さんの存在に感謝します。




あなたが
優しさで満たされる
絵本はなんですか?


遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その3

家庭を持っても単身生活を続けた画家


私の祖父母は、大正生まれでありながら、恋愛結婚をし、遠距離結婚を通したというレアなカップルです。
二人とも宮城県出身ですが、祖母は名取市の閖上(ゆりあげ)という港町で美容院を開業して3人の子どもを養い、一方で、祖父は画家として生業するために、単身で東京に暮らし続けました。

現在の閖上の風景。今は殺風景な工場地に見えますが、震災前は家並みが続き、漁港としても賑わっていました。

私は子どもの頃から、そんなちょっと普通じゃない祖父母の生き方が素敵だと思っていました。
しかし、二人とも既に亡くなっているので、心から尊敬する二人の歩みについてもっと話を聞いておくべきだったという後悔もあり、今、こうして私なりに紐解き、綴っています。

遠距離結婚を貫いた画家と美容師 前回まではこちら
その1/おしんのような経験を持つ美容師
その2/ずっと秘密にされてきた二人の馴れ初め

祖父は、祖母の一歳年上で、1917(大正6)年に生まれました。
15歳頃に帝展*審査員だった田中頼璋(たなからいしょう)の元に入門、そして近代日本画家の巨匠の一人である川端龍子(かわばたりゅうし)に師事しました。

*帝展:帝国美術院展覧会。戦前の日本において最も注目を集めた美術展

2017年に山種美術館で開催された川端龍子展のチラシと図録

若かりし祖父母の二人が出会ったのは、おそらく祖父が帰仙していた時に、仙台駅前で絵を描いている時だったのだろうと思います。
文通によって始まったお付き合いののち結婚しますが、祖母は、祖父が画家として成功することを願って背中を押し、自分自身は生まれた実家を守るためと子どもを養うために、美容院を開業して宮城の地から祖父を支えました。

ちなみに私の父が、二人の間に生まれた長男で、妹が二人の3人兄妹です。
父が生まれたばかりの頃こそは埼玉県で家族一緒にいたようですが、間も無く祖母は実家で一人奮闘することとなり、3兄妹にとっては父親がいないも同然の生活となるのでした。
でも、そんな父親でも、たまに帰ってくる時には、例えば当時にはまだ珍しかったコカ・コーラだったり、ある時にはTVを担いできたりして、閖上という田舎にいち早くハイカラな物を持ち込み、子どもたちを喜ばせたそうです。

さて、当の私も生まれ育った所は、祖母が守り続けた閖上の地で、私の母は隣町からお嫁になった人でしたが、祖母と同じく美容師だったため、祖母の後を継ぐ身としていつも忙しくしていたので、祖母はよく母に変わって私の面倒を見てくれました。
一方、祖父のあり方は、父たちが子どもの頃と変わりありませんでした。
祖母の願い通り、私が生まれた頃には、祖父は画家として確立しており、美術展の審査員や協会の役員を務める人ととなっていたので、私も祖父に会えるのは、良くても年に1・2回でした。

祖父母のこの遠距離結婚生活は、2001年に祖父が亡くなる前まで続きました。
パーキンソン病が悪化し、いよいよ寝たきり生活となる頃に、祖父は、故郷であるここ宮城の地へ戻ってきました。
およそ1年程度でしたが、最後に夫婦は、二人にとっては長い時間を共に過ごしたのでした。

浅野紫露「望郷」
浅野紫露「望郷」 閖上の浜辺の情景

ある時、私は祖母に、遠距離結婚なんてよくできたよね?と聞いたのですが、祖母は「半分意地だったんだ」と笑って言いました。
でも、祖父が亡くなってからも、私があえて聞かなくとも、祖母はたくさん祖父の思い出話をしてくれました。
同じ話を聞くこともありましたが、新しい話も時々飛び出し、遠距離結婚でも思い出がたくさんあるんだなと、孫としても嬉しく思いました。
それに、祖父のことを話す時の祖母はいつも楽しく嬉しそうで、祖父との遠距離結婚を意地で通したとはとても思えませんでした。

そして、祖父はと言えば、東京に出てから地元である宮城県に戻ってきたのは数えるほどしかないものの、自分の故郷をテーマとした作品を描き続けました。
また、祖母に捧げる作品として、美しい植物の絵を描くこともありました。

浅野紫露「あおい砂丘」
浅野紫露「あおい砂丘」 東北太平洋沿岸の松林

離れていても、互いに尊敬して信頼し合える愛があったからこそなんだろうなぁ・・・
結婚したからといって常に一緒にいるってことが当たり前じゃない形もあるんだな、むしろ、こういう形だったからこそ二人はそれぞれ自分なりに命を全うできたのかもしれない。
そう感じ、こういう関係って素敵だし、自分の祖父母ながらかっこいいなと素直に思っています。

そんな二人の孫として生まれてこれた私って幸せ。
こんな風に思える私って、本当に幸せ者。
きっと今は天国で、いつも一緒に私を見守ってくれているであろう二人に、心からありがとう。

コロナが落ち着いてきたら、祖父のことを深掘りするために、ゆかりのある場所や人々を訪れようと思っています。
祖父の絵については、また記述したいと思っていますので、引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。



あなたは
ご祖父母にどんな思い出が
ありますか?

遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その2

ずっと秘密にされてきた二人の馴れ初め


前回「遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その1」を書いてから、だいぶ経ってしまいました。
続きを気にかけてくださっていた方々、ありがとうございます。大変お待たせいたしました。

宮城県仙台市のお隣、名取市の港町「閖上(ゆりあげ)」で、宮大工を親に持つ3人兄妹の末っ子として生まれ、おしんのような経験を経て美容師になった私の祖母は、その気質はある意味では特殊だったのですが、私にとっては尊敬に値し、大好きでした。

現在の静かな閖上の港。昔はもっと活気があった。

そんな祖母と、画家だった祖父の、ちょっとユニークな関係。
遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その1」の続きを書きますね。

若かりし私の祖母は、昭和初期の仙台の街中で、ある青年と出会いました。
駅舎の前で、一人、キャンバスに向かって絵を描く青年。
小さい頃はよく地面に絵を描いて遊んだり、絵日記をつけたり、自身も絵画が好きだったという祖母は、その青年の姿に見入ったそうです。
「この人の絵、好きだなぁ」そう思った祖母は、自ら青年に声をかけたのでした。
それが、祖母にとっての運命の相手、私の祖父というわけです。

実は、この祖父母の出会いについては、祖母が亡くなる2年くらい前に私が祖母から聞かされたことで、それまでは誰にも明かされてきませんでした。
亡くなった私の父も生前「親父とお袋の馴れ初めを聞いても教えてくれない」と言っていましたし、母や叔母はもちろん皆が「馴れ初めは絶対秘密だって、誰も知らないんだ」と言っていました。
わかっているのは、7割型が「お見合い結婚」だった昭和初期の時代に、私の祖父母は「恋愛結婚」だったということだけ。
だからこそ、祖父母の馴れ初めについては、皆がとても知りたがっていることでした。

それで何度となく私も、秘密にされているらしいということを知らないふりをして「どんな出会いだったの?」と祖母に聞いてみたのですが、やはり「内緒」と、笑顔でかわされていました。
その時の可愛らしい笑顔から察するに、二人だけの大切な秘密にしておきたいのだろうなと思っていました。

ところが、ある日、なんとなくおしゃべりしていたら、祖母の方から、祖父との出会いについて話しだしたのです。
図らずも、誰にも明かされないできたことを聞かせてもらえたこと、しかも、仙台の街中で祖母の方から祖父に話しかけたのがきっかけだったとは、驚きました。

手前味噌ながら、私の祖父は、若い頃、スポーツも万能で、まあまあなイケメンでした。
対して、祖母は、見た目、特別美人とは言えない、それほどパッとしないような、普通な女子でした。
写真を見た限りそうでしたし、私の親たちもそう言っていました。
だから尚更、血縁者たちはそんな二人の馴れ初めが気になっていたわけですが、まさか、祖母から声をかけていたとは・・・

さて、若かりし祖父母の、その出会いと会話から、文通によるお付き合いが始まったのだそうです。
祖父は、風景画を基本とするため、あちこちに出向きます。それに、画家として成功することを目指してもそれだけでは食べて行くのは難しいので、画業以外の様々な職業を経て(ちなみに戦時中は兵器を作る会社で働いていたので徴兵されずに済んだとのこと)、一定にとどまるような人ではなかったし、現代のように電話も気軽にできない時代、文通によって心の距離を縮めたようです。

宮城県古川市の生まれで、両親は離婚し、実の母には連れ合いがいたのだけど、複雑な心境の中で育ち、その中で絵が心のよりどころとなった祖父に、優しく寄り添ったのが祖母だったのでしょう。

二人が結婚した当初は、埼玉県で生活していて、私の父も出生地は大宮でした。
しかし、祖母は3人兄妹でしたが、兄が戦争から戻った後で病の床に伏し、また、姉が嫁ぐこととなったため、末っ子の祖母が閖上の家を引き継ぐこととなり、祖父はお婿さんとなったのでした。

閖上では、夫婦で寺子屋のような形で子どもたちに絵を描くことを教えていたこともありました。
けれども、夫が画家として成功するには、こんな田舎にいてはダメだろうと考えた祖母は、別居することを決意したのです。
祖母は、生計を立てるために、女一人で銀行に相談してなんとか融資を得て、実家の地に美容院を作りました。

そうして始まった遠距離結婚生活。
祖母の奮闘によってできた美容院は繁盛し、私の父が小さかった頃は、子守りや家事の為のお手伝いさんも雇っていたそうです。
仙台の街中で働いていた時と同様に毎日忙しくて、息子(私の父)にとっては父親がいないも同然の生活だった上に、母親として十分に面倒も見てやれなかったと、祖母は言っていました。


そして、片や、祖父は・・・?

続きはまた次回に。


続きはこちら
遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その3/家庭を持っても単身生活を続けた画家


あなたは
“遠距離結婚 ”って
どう思いますか?

世界遺産の運河都市アムステルダム回顧

400年の歴史を持つオランダの環状運河都市


TVを普段ほとんど見ない私でも愛好している番組、毎週日曜の午後6時から放映されるTBSの「世界遺産」、本日(2021年5月9日)の内容は『アムステルダムの環状運河地区 〜 400年前に誕生!人工の水上都市』ですね。


オランダの首都アムステルダムは、水路が街の中にはりめぐらされた運河の街。
この運河地区は「アムステルダムの中心部:ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区」(Seventeenth-century canal ring area of Amsterdam inside the Singelgracht)という名称で2010年に世界遺産として登録されました。

世界遺産として認められるには、「世界遺産条約履行のための作業指針」で定められた10項目登録基準の一つ以上に当てはまる必要があります。
このアムステルダム環状運河地区登録基準(ⅰ)(ⅱ)(ⅳ)

(i):人類の創造的資質を示す傑作。
(ii):建築や技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展において、ある期間または世界の文化圏内での重要な価値観の交流を示すもの。
(iv):人類の歴史上において代表的な段階を示す、建築様式、建築技術または科学技術の総合体、もしくは景観の顕著な見本。

この世界遺産についての説明を、「世界遺産検定2級公式テキスト くわしく学ぶ世界遺産300」より参照して、以下に記載します。

アムステルダム旧市街から一番外側の運河「ジンフェルグラハト」まで扇状に広がっている環状運河は、16世紀末から17世紀初頭にかけて、新しい港湾都市プロジェクトとして整備された。
運河間の泥沢地から排水して干拓した土地に市街地を広げ、運河沿いには切り妻屋根を持つ均質的な建物が立ち並び、港から入った物資は運河を通って街の隅々にまで運ばれた。
アムステルダムの急速な拡大は、大規模な都市計画の見本として、19世紀まで世界の都市計画に影響を与えた。

さて、「緊急事態宣言」及び「まん延防止等重点措置」が発令されている、この2021年のコロナ禍中のゴールデンウィークも、何処にも行けずあっけなく終わってしまいましたので、またいつか旅行できる日を夢見て、今日は、過去に訪れたアムステルダムを、写真で回顧してみようと思います。

私が訪れたのは2019年のちょうど今頃の時期、アムステルダム運河地区散策の当日はあいにくの空模様でした。


東京駅とよく似ていると言われるアムステルダム中央駅を中心に運河が広がっています。
駅前には運河クルーズ運行会社がたくさんあり、世界遺産運河のクルージングを楽しむことができます。


歴史を感じる美しい運河。様々な橋の形状も面白い。


ところどころに跳ね橋があります。


アムステルダムの家並みといえば、これ。
カラフルで楽しげなものもあれば、モノトーンでシックなところも。


市庁舎として建設されたアムステルダム王宮
屋根に立つギリシャ神話の巨人アトラスの像は、アムステルダムのシンボルの一つ。


今は博物館となっているアンネフランクの家
かなり人気のスポットで数週間前には予約する必要があり、私は残念ながら、入館できませんでした。


絶対に訪れたかったレンブラントの家
偉大な画家レンブラント・ファン・レインが1639年から20年間住んでいた家を利用した美術館もアムステルダムの街中にあります。


2019年はちょうどレンブラントの没後350周年だったので、レンブラント出生のオランダに是非行きたい!と思って訪れたのでした。
アムステルダム旧市街から一番外側の運河「ジンフェルグラハトSingelgrachtシンゲル運河)」沿いに、美術ファンなら必ず訪れたい「アムステルダム国立美術館Rijksmuseum)」があります。
ここでも、レンブラントの特別展が開催されていました。


アムステルダム国立美術館は、ゴッホの「自画像」や、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」などの所蔵品はさることながら、その建物自体も素晴らしく、とても広くて数時間では見切れないけれど、ここはレンブラントの名作「夜警」が収蔵されていることでも有名です。
レンブラントの没後350周年ということもあって訪れたオランダ、この作品を見ないわけにはいかないのですが、ご覧の通り、すごい人でした。


大勢の人に圧倒されましたが、挫けずにいいポジション陣取って、しっかり堪能しました。


400年の歴史を持つアムステルダムの運河都市、素晴らしい世界遺産と芸術を味わえる旅でした。
またそんな旅に行ける日はいつだろう・・・


あなたの
旅の思い出の地は
どこですか?


「くわしく学ぶ世界遺産300<第5版> 世界遺産検定2級公式テキスト」マイナビ出版
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遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その1

おしんのような経験を持つ美容師


私の祖母は、101歳でこの世を去りました。
大正、昭和、平成を生きた、強くて優しい人でした。
美容師として80歳まで働いた祖母は、亡くなる少し前の体が衰弱するまで、必ず朝は早起きをして薄化粧をし、身だしなみを整える人で、年齢も常に10歳以上は若く見られていました。

1950年代の美容室の様子(出典:wikipedia)

私は、そんな祖母が大好きで、ずいぶん一緒に時間を過ごしました。
祖母のベットは大きくてフカフカだったので、時々、寝かせてもらいに行ったり。
年と共に足がかなり弱っても、あちこち行くのが楽しいと言う祖母とはよく出歩きました。
私の腕に回された祖母の手の感覚は今でも残っているくらい。
祖母からはたくさんの話を聞きました。

祖母は、宮城県名取市の港町である閖上に、3人兄妹の末っ子として生まれました(1歳で亡くなっている兄がいるので厳密には4人兄妹)。
祖母を産んで間も無く、29歳という若さで亡くなってしまった母親のことは覚えておらず、酒豪だった父親は宮大工だったこともあり芸術への造詣が深い人だったとのことでした。

祖母が生まれた大正初期といえば戦時のこと、米騒動が起きた時代で、落ちてしまった米一粒でも拾って食べたと言います。
そんな幼少期を経て、10代でとある美容院に奉公に出された祖母は、自身の手に職をつけることを願っていましたが、そこでは、小さい子供の世話や家事手伝いといったことしかさせてもらえず、食事も十分に与えられず、粗末に扱われたそうです。

数年後、もう嫌だと言って戻ってきた後は女学校に通わせてもらい、卒業後は今度こそ無事に美容院に勤めることができました。
そこは休みがほとんどない仙台中心部の美容院。住み込みで、早朝から夜中まで仕事づくめ、かなり忙しかったといいます。
有名人では、淡谷のり子さん(ブルースの女王と呼ばれた日本のシャンソン界の先駆け。若い人は知らないでしょうけど…)を対応したことがあったとか。

淡谷のり子/1930年代(出典:wikipedia)

美容師さんというと今では人気の職業ですし、たくさんの美容室があってどこに行けば良いのか迷うほどですが、祖母が若かった時代というのは、女性が手に職をつけるのも難しい時代、美容師もまだまだ稀な職業で、一般的なサラリーマンのお給料の倍はしたのだそうです。
しかも、指名してくれるお客さんもいて、そういった人からはチップももらえていたそう。
おしんのような屈辱的で辛い経験を経ている祖母には、仕事づくめの毎日でも、美容師として働けることに心からやりがいを感じ、本当にありがたかったのだそうです。

※おしん:橋田壽賀子氏の原作で大ヒットした、明治時代末期の女中奉公に出された少女のドラマ


Amazon Prime Videoはこちら→「おしん


ところで、女性の皆さんは、「日本髪」をされたことはありますでしょうか?
現代では日常では当然する人はいないヘアスタイル「日本髪」、女優さんだってカツラをかぶる現代、もうその髪型を作れる人は少ないわけですが、私の祖母は伝統的な日本髪を結うことができる人だったので、ウチでは、祖母の孫にあたる女子(従姉妹と私)は節目に日本髪を祖母に結ってもらうという儀式のようなものがありました(記念撮影をするだけですが)。


「日本髪」ってそのヘアスタイルを見ただけでも、どうやって結ってるのって思いませんか?
実際、その作業は結構な時間がかかりますし、髪の毛に鬢付け(びんつけ)油を塗って引っ張りながらされるのはただただ辛くて、痛い痛い言いながらひたすら耐えていたことしか記憶にありません・・・
でも、大好きな祖母に、自分の長く伸ばした髪の毛を日本髪にしてもらって、着物の着付けもしてもらったことは、かけがえのない一生の思い出です。
ちなみに、私の母親も美容師なので、着物の着付けは祖母と母が一緒にしてくれました。
実家は美容室だったので、何度となく着物を着る機会がありましたが、今思えば、それも貴重で幸せなことでしたね。

さて、話はまた若かりし祖母の話に戻ります。
毎日忙しくて食事を取る時間もままならなかったけれども、美容院のそばには飲食店があってよく駆け込んで食べていたことや、休みが取れたときは映画館に行って一日中ずっと大好きな映画を観ていたこと(昔は今のように指定席制じゃないから一度入ればずっといられる)、超繁忙期の年末年始は明け方まで働いたけどそのまま友達と初詣に行ったとか、楽しいこともたくさんあってとっても充実していたのだそうです。

昭和初期の仙台駅(出典:wikipedia)

そして、そんなある日、仙台の街の中で、絵を描いてる一人の男性に出会った・・・

それが、私の祖母と祖父の出会いというわけですが、長くなりましたので、続きはまたの日に書かせていただきます。


続きはこちら
遠距離結婚を貫いた画家と美容師 その2/ずっと秘密にされてきた二人の馴れ初め



おしんの時代
あなたには
想像がつきますか?

春の訪れと共に届いた贈り物

親友の気だてに涙


20201年3月31日、こちら仙台で、観測史上一番早い桜の満開宣言がなされました。
職場までの道すがらには桜の見所が何箇所かあり、ここ最近は良いお天気も続いているので、徒歩での通勤もとても気持ちがいいです。

花京院橋の上からは仙台市立東六番丁小学校の大きな桜を眺めることができる
仙台管区気象台へ続く道
観測史上初を受けて、仙台管区気象台前の桜の木は全国放映された
仙台管区気象台敷地内に咲く美しい桜の木

新年度が始まって慌ただしさは増す一方ですが、こんな風景には心も癒され、なんだかいい予感さえしてきます。
そんな気分の昨日、宅急便が届きました。

平らで幅50×40cmほどの包み。
送り主は親友です。
そこで、ふと「もしや・・・」との思いがよぎりました。

開封してみると、やっぱり!
2004年に製作された、画家だった祖父の作品集代わりとも言えるカレンダーです。

なんとまあ、15年以上も前のものをこんなに綺麗に取っておいてくれたのでしょう!!
このカレンダーは祖父が亡くなってから数年後に、懇意にしてくださっていた地元閖上の森内科クリニック・森精一先生が製作してくださったものです。

先日、私が祖父のことについて書いたブログを見て、このカレンダーを持っていた友人が送ってくれたのです。

前回の記事:祖父の絵を探しに/孫としてできること

内心、せめてこのカレンダーが残っていたら・・・という思いはあったものの、15年以上も前の、有名でもない画家の、しかも単なるカレンダーなどでは、わざわざ取っておいてくれている人もいないだろうと思っていたので、親友のこの気だてには泣けてしまいました。

このカレンダー表紙の作品は「弥生の頃」というタイトルで、大きさは100号くらい、閖上にあった実家の玄関に飾られていたものです。
祖父亡き後も、実家に帰るとこの絵に出迎えられ、しばし祖父に想いを馳せたものでした。

春の訪れと共に、祖父が描いた桜にも会えるとは・・・
本物の絵ではなくとも、失われてしまった祖父の絵、こんな形でも本当に嬉しく、感謝しかありません。

良い友達に恵まれ、本当に幸せです。ありがとう。


あなたの心に
春は
訪れましたか?

祖父の絵を探しに

孫としてできること


先日、心待ちにしていた一冊の本が届きました。
古本屋さんから送っていただいたのですが、かなり丁寧に梱包してくださっていて、添え状も決まり文句ではなく、気遣いの感じられる文章で、心が温まりました。

雑草文庫の池田洋一様には、この場を借りて御礼申し上げます。
とても綺麗な状態で届きました。ご丁寧に、本当にありがとうございました。

さて、注文したのは、昭和55(1980)年に初版発行された「話の散歩道」というもので、著書様には申し訳ないのですが、目的は、本の中身ではなく、この本の『表紙』です。

表紙になっている絵のタイトルは「宮城県名取市閖上 広浦」。
広浦(ひろうら)は、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区と下増田(しもますだ)地区にまたがる潟湖で、市内を流れる増田川の河口潟でもあります。
10年前の津波に飲み込まれましたが、現在も以前のような穏やかで静かな情景が広がっています。

この地を故郷として愛し、テーマの一つとして絵を描き続けた画家が、このカバー絵の作家であり、雅号を「紫露(しろ)」と言います。
本名は四郎。
仙台に生まれ、美容師で絵が好きだった女性と出会い、お婿さんとなった、私の祖父です。
美容師の女性というのはもちろん、私の祖母です。
また改めて書きたいと思っていますが、私の祖父母は、現在でさえ珍しい「遠距離結婚(会社都合による単身赴任とは違い互いの意思によるもの)」です。

ところで、広浦湾はありのままの自然環境なので、鴨、川鵜、白鷺などのバードウォッチングも楽しめる場所です。
そして、この絵にもあるように、私の祖父は、白鷺をよくモチーフにしていました。

日本画家だった祖父は、20年程前に亡くなりました。
逝去年齢的には平均的なものですが、長い間パーキンソン病と戦っていました。
パーキンソン病さえ抱えていなければ、亡くなるまで絵を描き続けることも可能だったかもしれないし、確実にもっとたくさんの作品を残せたはずです。
画家でありながら、右半身の手足の震え、麻痺により、絵が描けなくなってゆく自分がどれだけ悔しかったかことか・・・

東京で単身生活していた祖父でしたが、亡くなる少し前には宮城県の病院に入院し、東京を引き払いましたので、譲ったり処分したものがほとんどですが、一部の私物や作品などは実家に保管されていました。
この本も、実家の祖母の本棚にあったと思います。
大きな本棚には、祖父が持っていた美術関係の本もたくさんあって、祖母の亡き後には、作品まではもらえなくとも、これらは私がもらうと、祖母から了解を得ていました。
しかし、あの未曾有の大地震によって、全てが失われました・・・

実は、祖父が亡くなってからほどない頃に、地元名取での個展をしてはどうかとお話をいただいたことがあります。
私の父と母は乗り気でしたが、祖父を巡っての血縁者間によるつまらないいざこざが続いていたので、私は反対し、お断りしたのです。
当時なら、個展でもやっていれば、データにでも残しておくことができたかもしれないのにと、悔やまれてなりません。

祖父を心から尊敬し、画家になりたいと考えていたことのある私ですが、その願望は高校時代に失ってしまったため、祖父の作品にはそれほど触れていないのです。
私は、これまで、人には流されず、自分のやりたいことをやってきた人間なので、ほとんど後悔はない人生を歩んできたと思っていますが、祖父に関してのことだけは、深く悔やんでいます。

東日本大地震が起きて10年過ぎてしまった今さらですが、だからこそなのでしょう。
祖父の絵を探すことを私自身のライフワークに加えたいと思いました。
正直なところ、この数年、ずっと考えていたことではあるのですが、取り組めないでいたことの一つです。

天国にいる祖父母を喜ばせたいし、私も後悔したくないから・・・


あなたには
悔やまれることは
ありませんか?

しあわせを運ぶ珠玉の言葉

穏やかな気持ちになれる「しあわせことばのレシピ」


昨日(2021年3月20日)も、強い地震がありました。
今回は宮城県沖、最大震度5強。
先月の13日に起きた地震よりも弱く短い時間だったことと、繰り返しの教訓により、今回は何も落ちず壊れずで済みました。

とはいえ、やっぱり、嫌ですね・・・
宮城県は、コロナ感染者数が100人を超えたことで、今週17日に県独自の緊急事態宣言を発出されたばかりでもあり、どうして、こう不安なことが続くのだろうと思ってしまいます。
この週末に出かけるはずだった予定もキャンセルしました。

でも、ここ最近、仕事でコン詰めの毎日だったので、少し家で体を休めなさいということかな、と都合よく捉えることに・・・
そこで本日は、こんな時にこそ部屋でゆったりと読みたいオススメの本をご紹介します。

画家・絵本作家・詩人でいらっしゃる葉祥明氏による詩集「しあわせ ことば の レシピ」。
優しげな装丁も良いでしょう?

葉祥明ようしょうめい)さん、とってもあたたかで優しい素敵なイラストを多数描かれています。
現在御歳は74歳で、ご活動経歴も長いので、氏の絵を目にしたことがある方は多いと思います。

1973年に絵本作家としてデビューされた時の絵本「ぼくの ベンチに しろいとり」は、イギリス、フランス、スウェーデンでも発刊され、人気を呼んでいます。
この白い犬ジェイク君はこの時からずっと愛されているキャラクター。カワイイですよね。

ところで、言霊ことだまについて、あなたは考えたことがありますか?
言霊は、言葉に秘められた神秘的な力のことを言います。
言葉を扱う能力というのは、贈り物とでもいうべき、人間に与えられた特別な力。
言葉が人を作るとよく言いますよね。

絵本作りについて『人生のはじまりにいる、5・6才の子どもたちに「世界」は信じられるところだと思えるような、平和で、あたたかい絵本をこころがけてきた』とおっしゃる葉さんによる、幸せで心穏やかな人生を送るためのヒントを書いた「言葉」が注目されるようになりました。

大人の女性向けに製作された「しあわせ ことば の レシピ」ではありますが、こんな時代だからこそ、是非とも男性にも読んでいただきたい一冊です。

こちらの本は、各見開き1ページに、素敵なイラストと共に、美しい日本の一語をテーマに、詩的なヒントが綴られています。
セレクトされている言葉は、あいうえお順に、「あいらしい(adorable)」から「りりしい(high-spirted)」まで25個。
英訳も添えられているので、海外の方へのプレゼントとしても喜ばれます。

今回は、この中から、私のこのHPのタイトルの一語としても使っている「calm」を使われたページを抜粋にて紹介させていただきます。


おだやか

あなたは
いつでも、どこでも
何が起こっても
相手が誰でも
おだやかな態度でいられますか?
おだやかさは社会にとって
今、もっとも必要なものなのです。

安全と安心と
信頼をもたらすおだやかさは
人や世界や人生、
そして自分自身を
信じることから
生まれるのです。


calm
can you always be calm wherever you are,
whatever happens,
and whomever you are with?
calmness is what we need
the most in today’s society.
calmness that can bring peace
and security first brings
from trusting others,
the world, and yourself.


「しあわせ ことば の レシピ」(日本標準出版/葉祥明著)p.46-47より


添えられた言葉もイラストも、どれもやさしくて素敵で、心がホッとする中にも、ハッとさせられることがあり、繰り返し眺めたい本の一つです。



あなたは
言霊を
信じますか?





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