大切な故人を想う2022年夏

今年初めての我が故郷 閖上にて


曇り続きの毎日でしたが、2022年も8月に入ってからのこの数日はようやく青空を見ることができるようになり、各地での花火大会やお祭りも盛んに行われ、夏も本番という感じですね。

そんな中、弱音は吐きたくないのですが、、、
私自身は、しばらく仕事が忙しい状態が続いて、これまで走り続けるしかなかったのですが、その忙しさがようやく落ち着いてきたら、たまった疲れが取れきれないからか、それとも燃え尽き症候群みたいなものなのか、どこか心が満たされないような感じ、それが実は、ここ数日前までの正直な感覚で。

急に周りの喧騒が気になりだして、なんだか安らいだ気分になれない。
やりたいこと、興味あることはたくさんある。
けど、私、本当は何がしたかったんだっけ??
私って、どんな人間だったっけ??

そんな気にさえなってしまうほどでしたが、こんな時、自分を引き戻してくれるのが、故人の存在だったりします。

ちょうど先日、8月5日は、癌でこの世を去った父の誕生日。
そして、8月8日は大好きだった祖母の命日。
8日の月曜日に休暇を取って、大切な故人のお墓参りに行くことにしました。


先祖のお墓は、以前は名取市閖上(ゆりあげ)の地にありましたが、東日本大震災後、同じ市内ではありますが、閖上から車で15分ほどの増田地区へと移すことになりました。
なので、お彼岸やお盆などで定期的にお墓参りには行っても、もう実家のない閖上には行くことはあまりないのです。
ですが、今回はせっかく取れた平日の休暇。
騒々しさのない中で、静かな気持ちになりたかったので、閖上まで足を延ばして来ました。

インスタグラムにポストした動画は閖上の名取川沿いの土手から井戸浜の方を見た景色ですが、次の動画はその逆方向で、閖上から荒浜の方を見た風景です。

閖上に昔からあったサイクルスポーツセンターが、2020年に温泉を備えた宿として復興オープンして、今は施設の屋上からこんな景色を眺めることが出来ます。
新しく出来た土手は亘理ぐらいまで続いているのでしょうか。一度歩いてみたいです。


昔の風景も知っている私としては、海に沿って続いていた松林が、現在ではなくなってしまっているのが、なんだか殺風景で寂しくは感じるものの、やはり、この地で育った私には、海の奏でる音が胸に響き、落ち着く感覚を得ることができます。

この荘厳で美しい海がずっと日本の端まで、そして世界へと続いていて、たくさんの恩恵を私たちは受けているんだなと想うと、自然への畏敬の念が湧くとともに、自分の命あることに感謝の気持ちでいっぱいになります。



そうだ、私、ワクワクして過ごしながらも、刺激的なことは時々でいいから、あたたかくて優しい人たちと、愛で繋がる安らいだ世界を作りたいんだった。
今、私が住んでいるところはこんな田舎の静けさのない賑やかな街の中で、私はそこで必要とされていて、時に忙しく仕事に根を詰めなければならないこともあるけれど、決して忘れてはならないものを私は知っている。
特別な才能も何も持たない私だけど、大切にすべきものを知っている。
喧騒の中にいても、それを忘れないでいること。
多分、それが、私の強みだ。

そんなことを想いました。
明後日、13日からはお盆。この期間は大切な叔母とともにお墓参りに行きます。
先日はお墓参りをしてから閖上へ行って心が洗われたので、今度は、そのお礼を告げようと思います。
心からの感謝をこめて。


あなたが
ご先祖に伝えたいのは
どんなことですか?

春の訪れと共に届いた贈り物

親友の気だてに涙


20201年3月31日、こちら仙台で、観測史上一番早い桜の満開宣言がなされました。
職場までの道すがらには桜の見所が何箇所かあり、ここ最近は良いお天気も続いているので、徒歩での通勤もとても気持ちがいいです。

花京院橋の上からは仙台市立東六番丁小学校の大きな桜を眺めることができる
仙台管区気象台へ続く道
観測史上初を受けて、仙台管区気象台前の桜の木は全国放映された
仙台管区気象台敷地内に咲く美しい桜の木

新年度が始まって慌ただしさは増す一方ですが、こんな風景には心も癒され、なんだかいい予感さえしてきます。
そんな気分の昨日、宅急便が届きました。

平らで幅50×40cmほどの包み。
送り主は親友です。
そこで、ふと「もしや・・・」との思いがよぎりました。

開封してみると、やっぱり!
2004年に製作された、画家だった祖父の作品集代わりとも言えるカレンダーです。

なんとまあ、15年以上も前のものをこんなに綺麗に取っておいてくれたのでしょう!!
このカレンダーは祖父が亡くなってから数年後に、懇意にしてくださっていた地元閖上の森内科クリニック・森精一先生が製作してくださったものです。

先日、私が祖父のことについて書いたブログを見て、このカレンダーを持っていた友人が送ってくれたのです。

前回の記事:祖父の絵を探しに/孫としてできること

内心、せめてこのカレンダーが残っていたら・・・という思いはあったものの、15年以上も前の、有名でもない画家の、しかも単なるカレンダーなどでは、わざわざ取っておいてくれている人もいないだろうと思っていたので、親友のこの気だてには泣けてしまいました。

このカレンダー表紙の作品は「弥生の頃」というタイトルで、大きさは100号くらい、閖上にあった実家の玄関に飾られていたものです。
祖父亡き後も、実家に帰るとこの絵に出迎えられ、しばし祖父に想いを馳せたものでした。

春の訪れと共に、祖父が描いた桜にも会えるとは・・・
本物の絵ではなくとも、失われてしまった祖父の絵、こんな形でも本当に嬉しく、感謝しかありません。

良い友達に恵まれ、本当に幸せです。ありがとう。


あなたの心に
春は
訪れましたか?

祖父の絵を探しに

孫としてできること


先日、心待ちにしていた一冊の本が届きました。
古本屋さんから送っていただいたのですが、かなり丁寧に梱包してくださっていて、添え状も決まり文句ではなく、気遣いの感じられる文章で、心が温まりました。

雑草文庫の池田洋一様には、この場を借りて御礼申し上げます。
とても綺麗な状態で届きました。ご丁寧に、本当にありがとうございました。

さて、注文したのは、昭和55(1980)年に初版発行された「話の散歩道」というもので、著書様には申し訳ないのですが、目的は、本の中身ではなく、この本の『表紙』です。

表紙になっている絵のタイトルは「宮城県名取市閖上 広浦」。
広浦(ひろうら)は、宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区と下増田(しもますだ)地区にまたがる潟湖で、市内を流れる増田川の河口潟でもあります。
10年前の津波に飲み込まれましたが、現在も以前のような穏やかで静かな情景が広がっています。

この地を故郷として愛し、テーマの一つとして絵を描き続けた画家が、このカバー絵の作家であり、雅号を「紫露(しろ)」と言います。
本名は四郎。
仙台に生まれ、美容師で絵が好きだった女性と出会い、お婿さんとなった、私の祖父です。
美容師の女性というのはもちろん、私の祖母です。
また改めて書きたいと思っていますが、私の祖父母は、現在でさえ珍しい「遠距離結婚(会社都合による単身赴任とは違い互いの意思によるもの)」です。

ところで、広浦湾はありのままの自然環境なので、鴨、川鵜、白鷺などのバードウォッチングも楽しめる場所です。
そして、この絵にもあるように、私の祖父は、白鷺をよくモチーフにしていました。

日本画家だった祖父は、20年程前に亡くなりました。
逝去年齢的には平均的なものですが、長い間パーキンソン病と戦っていました。
パーキンソン病さえ抱えていなければ、亡くなるまで絵を描き続けることも可能だったかもしれないし、確実にもっとたくさんの作品を残せたはずです。
画家でありながら、右半身の手足の震え、麻痺により、絵が描けなくなってゆく自分がどれだけ悔しかったかことか・・・

東京で単身生活していた祖父でしたが、亡くなる少し前には宮城県の病院に入院し、東京を引き払いましたので、譲ったり処分したものがほとんどですが、一部の私物や作品などは実家に保管されていました。
この本も、実家の祖母の本棚にあったと思います。
大きな本棚には、祖父が持っていた美術関係の本もたくさんあって、祖母の亡き後には、作品まではもらえなくとも、これらは私がもらうと、祖母から了解を得ていました。
しかし、あの未曾有の大地震によって、全てが失われました・・・

実は、祖父が亡くなってからほどない頃に、地元名取での個展をしてはどうかとお話をいただいたことがあります。
私の父と母は乗り気でしたが、祖父を巡っての血縁者間によるつまらないいざこざが続いていたので、私は反対し、お断りしたのです。
当時なら、個展でもやっていれば、データにでも残しておくことができたかもしれないのにと、悔やまれてなりません。

祖父を心から尊敬し、画家になりたいと考えていたことのある私ですが、その願望は高校時代に失ってしまったため、祖父の作品にはそれほど触れていないのです。
私は、これまで、人には流されず、自分のやりたいことをやってきた人間なので、ほとんど後悔はない人生を歩んできたと思っていますが、祖父に関してのことだけは、深く悔やんでいます。

東日本大地震が起きて10年過ぎてしまった今さらですが、だからこそなのでしょう。
祖父の絵を探すことを私自身のライフワークに加えたいと思いました。
正直なところ、この数年、ずっと考えていたことではあるのですが、取り組めないでいたことの一つです。

天国にいる祖父母を喜ばせたいし、私も後悔したくないから・・・


あなたには
悔やまれることは
ありませんか?

あの日から10周年の今日

2021年3月11日 東日本大震災追悼式


2011(平成23)年3月11日(金) 14時46分に起きた東北地方太平洋沖地震による大災害。
あの日から、10周年を迎える今日。

私は、宮城県名取市の港町である閖上(ゆりあげ)が出身地であるとともに、母の実家が仙台空港付近である北釜地区(名取市)で、身内では母方の祖母と叔父がなくなっているので、毎年、名取市主催の追悼式に参列しています。

名取市の追悼式は名取市文化会館で行われます。
ここには、画家だった祖父の絵を飾っていただいているので、その作品とも対面できる時間を持つこともできるのが、個人的にはありがたいのです。
実家は完全に流失し、実家にあった祖父の作品も全て失われてしまったので、こうした所に残されているのが、遺族としては、本当にありがたいことなのです。

昨年は、コロナによって、式は中止となり、献花だけが可能でした。
かなり人がまばらで、虚しかったのを覚えています。

今年は、コロナ禍の中でもなんとか無事迎えられた式典。
新天皇そして新総理大臣も初めてとなる追悼式です。
このような点からも、節目の10年という感じがしました。

とはいえ、もう10年であり、まだ10年・・・
今日の式での遺族代表者の方による言葉にあった「心の復興は終わらない」といフレーズが、耳に残っています。

今日は朝から爽やかで、1日中穏やかなお天気に恵まれましたが、10年前のあの日は地震後、雪に見舞われました。
私は、勤めていた職場から徒歩で当時住んでいた自宅へ3時間近く歩いて帰ることにはなりましたが、自分の部屋で夜を越すことができました。
一方で、私の実家に住んでいた祖母や義妹とその子供達を含む大勢の人が、寒空の下で、ひどい光景を目の当たりにながら、夜を越すことになったのです。

今日、静かで平和な朝を迎えられたことに、これほど感じる感謝の念。
あの日がなかったら、こんな気持ちも持つことはなかったかもしれません。
生かされたことには何か意味があるのだろう。
そう思って、明日も生きていきます。


あの日から
あなたにとっては
どんな10年間でしたか…?


あの日からもうすぐ10年

東日本大震災から静かに復興している閖上


年明け初めて、自分の生まれた地「閖上(ゆりあげ)」に行って来ました。
閖上は、宮城県名取市の港町です。

少し雲がかってはいましたが、寒さ和らぎ爽やかなお天気に恵まれ、気持ち安らぐ時間を持つことができました。

2011年3月11日、東日本大震災が発生したあの日から、もうすぐ10年という節目を迎えます。

無慈悲にも壊滅してしまった閖上ですが、ゆっくりと静かに復興しています。

閖上の砂浜と穏やかな太平洋。
この海があのおぞましい津波と化したとは想像もしたくないです。

あの津波を受けて、長い長い堤防が設けられました。
今では、散歩、ランニングにはうってつけの環境。

そして、昨年(2020年)10月には「名取市サイクルスポーツセンター」が復活をとげました。

同施設は、1975年に開設され、私にとってはもちろん、閖上で生まれ育った人なら何度となく訪れたであろう思い出の場所。

1周4キロの「サイクリングロード」や「おもしろ自転車広場」に、スポーツコート、さらには日帰り入浴も可能な天然温泉も備えた名取ゆりあげ温泉「輪りんの宿」が併設され、震災前より充実したレクリエーション施設として復活した「名取市サイクルスポーツセンター」。
東北の新しいレジャースポットとして再出発されたこと、閖上出身者として、とても嬉しく思います。

宿泊施設「輪りんの宿」の屋上からは、広大な景色を臨むことができます。

伊達政宗の命じにより物資輸送のために開削された貞山堀(ていざんぼり/貞山運河)の周辺も、綺麗に整備され、喧騒のない静かな時間を過ごすことができます。

貞山堀を挟んで「名取市サイクルスポーツセンター」の対岸側は、釣り船の出船場となっています。
手ぶらで釣りが楽しめるサービスなどもあるそうですよ。

閖上港朝市が開かれる場所付近の堤防も整備され、そこから眺める並んだヨットと広浦湾の風景は、昔と似ている部分もあり、ノスタルジーを感じます。

あの日からもうすぐ10年。
変わってしまったけれども、懐かしい風景もあり、私のルーツはここにあることに変わりないんだなと感じるとともに、生かされていることに感謝し、この尊い命を精一杯、大切に生きようと、改めて思えました。

清々しくも穏やかで、幸せな時を過ごせたことに、心からありがとう・・・


名取市サイクルスポーツセンターのWEBサイト


あなたの
大切な場所は
どこですか?

震災を経て9年の閖上(ゆりあげ)の海

まちは生まれ変わっても、海の景色は変わらない


本日、2020年7月23日(木)は、海の日、日本国民の祝日です。
通常は、7月の第3月曜日が海の日とされていますが、今年は、オリンピックがある予定だったために日程が調整されました。
新型コロナにより、オリンピックは延期され、その意味はなさないものとはなりましたが、毎日忙しく働く日本人にとって、祝日があるというのはやはり嬉しいことですね。

ところで、「海の日」というのは、海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願うために制定されているのだそうです。

内閣府HP:「国民の祝日」について

というわけで、本日は、私の生まれ育った海のまち閖上(ゆりあげ)について、現在の様子を、写真にて紹介させていただこうと思います。

閖上は、宮城県仙台市の隣に位置し、仙台空港の所在地でもある名取市のまちの一つで、太平洋に面した地区です。
江戸時代には仙台藩直轄の港で、仙台に魚介類を売り栄えました。
伊達政宗が掘らせたという日本最長の運河「貞山運河」(地元では貞山掘り(ていざんぼり)と言ってます)を使い仙台城下に海産物を運んだのだそうです。

現在の貞山堀

そんな歴史と海に幸に恵まれた地区ではありますが、2011年3月11日、発生した大地震によって、最大浸水高9.09mの津波に襲われた閖上の沿岸部は、完全に飲み込まれてしまいました。

今年(2020年)5月に「名取市震災復興伝承館」がオープン。見学は無料です。

私の実家も、港のすぐそばでしたので、根こそぎ流されてしまいました。
震災後、復興に尽力する人々もいる中、私はなかなか訪れる気になれなかったのですが、この度、初めて数時間、自分が生まれ育った閖上に滞在しました。

伝承館内には宮城県の学生さんらによって作られた、当時を再現したジオラマがあります。
私の家はこの辺り。ちゃんと名前があったので嬉しいです。
私の家があったあたりは、現在では工場地帯となっています。

すっかり町並みは変わってしまい、どこに来たのかわからない寂しい気持ちになってしまうのが、ここで育った人間としての正直な心情ですが、海の静かな情景と、塩と磯の香りに懐かしさを感じました。

ヨットハーバーは震災前よりずっと広く立派になりました。

子供の頃、港が遊び場の一つでした。
再生されてはいますが、現在のこの港の風景は、当時の様子に近いものがあり、なんだかとてもホッとする気持ちになりました。

この雰囲気は震災前にだいぶ近いです。
昔ながらの魚市場もなければ船も減ってしまいましたが・・・
港の対岸

津波という悲劇に見舞われましたが、普段はこんなに穏やかな景色。


震災前同様、釣りを楽しむ人も大勢います。

震災前に比べて、釣りもしやすくなったように見えます。
私は釣りしないんで、よくわかりませんけれども・・・
2019年にオープンしたかわまちテラス閖上
食事やスイーツ、この地の特産物を見て食べて楽しめる、色々なお店が並んでいます。

浜や食堂」さんで「しらすW丼」をいただきました。
閖上産北限しらすの生しらすと釜揚げしらすの丼ぶりです。
テラスで海を眺めながら食事が楽しめます♪

浜やさんのインスタグラムはこちら

対岸に見える小高い丘は、仙台市荒浜地区の「避難の丘
2020年5月に完成し、標高10m、頂上部は正方形で面積約5700㎡で、仙台市内にある5つの避難の丘で最大規模とのことです(2020年7月現在)。
この写真の奥に仙台のまちが広がっています。
釣りをしている人たちの前に流れるのが名取川で、この対岸が仙台市です。

この海に襲われたのは悲しいことではありますが、その、人間に対する自然の怒りによって、いろんなことを考えるきっかけになったし、やっぱり、自分の育った場所の海って愛しいんだなー、この海に囲まれた島国としての日本だからこそ、誇れるものや恩恵がたくさんあるんだなーと、しみじみと感じ、改めて感謝しました。


あなたの
思い出の海は
どこですか?

臨床美術を初体験した時の感動 その1

臨床美術に出会うまで 〜東日本大震災というきっかけ〜

2011(H23)年3月11日(金)14時46分18秒、東日本大震災(総務省消防庁の記録写真)が起きました。
誰もがショックを受けた大事件でしたが、私自身も直接的なダメージを受けるとは、本当に信じられないことでした。

私は、赤貝で知られる港町、名取市閖上(なとりしゆりあげ)の出身です。
震災当時は、実家を離れ、名取駅そばに住み、仙台市の職場に通っていました。
実家は、毎朝競りの声が響く港のすぐ近く。子供の頃から、地震の時は津波が来たらどうしようと怯えたものでしたから、大地震が起きたその日は、実家や家族がどうなってしまうかとそれまで感じたことのない恐怖に襲われました。

幸いにも、当時住んでいた祖母と弟夫婦一家は無事でしたが、実家は根こそぎ流され、身内では、母方の祖母が津波により亡くなりました。
そして、その翌年の1月には、震災で心を病んだ叔父が自死しました。

叔父は、私のことを常に気にかけてくれていて、父が癌で亡くなり、その後母が家を出ていった後も、誰より私を支えてくれた、私にとって兄であり父のような存在でした。人望もあり、常にリーダーシップを取って、周りを盛り上げるような人でした。そんな叔父が精神を病み、見た目まで小さくなっていく姿は、見ていてとても辛かったのですが、私は、何もできませんでした。

この頃、私は命について深く深く考えました。

なんでみんな死んでいってしまうの?
私は良い歳して独り身で、そのくせ大したこともしていない、私みたいな人間のほうが生きているのに相応しくないのに。
なんで私なんかが生きているんだろう?
私なんか、生きている意味ない・・・

はじめに」でも触れました通り、震災以前から、生きているのが辛いと感じていたような私には、そんな思いが長いこと強かったのですが、ある時、私は生かされているんだという気持ちになりました。

地元で震災があったにも関わらず無事だった自分に比べれば、もっとずっとひどい思いをしている人がたくさんいることや、私自身何度も体験している身近な人を失った時の悲しみを考えると、こんな私でも、死んだりしたら、誰かは悲しんだり、少なくとも人に迷惑をかけてしまう、といったことを改めて考え、気持ちが変わってきたのです。

「与えられた命を全うし、世の役に立ちなさい」と神様仏様に言われているのではないか?
そうとらえて生きていこう、と思えるようになったのでした。

そんな時に出会ったのが臨床美術です。
臨床美術に、私は魂が震えるような感覚を得て、自分自身の心の中にも周りにもあたたかい世界を広げる可能性を感じることができたのです。

…ここまでのお話が長くなってしまいました。お読みいただき、ありがとうございました。
短くまとめるつもりだったのですが、やっぱりこの経緯とかきっかけとかが今の自分にとって大切であるように感じるので、記しておくことにします。

また次回に、本題の臨床美術の初体験について書かせていただきます。
ご興味持っていただけるようでしたら、続けてご覧いただけましたら嬉しいです。


この記事の続きは、こちらです↓
臨床美術を初体験した時の感動 その2


あなたは与えられた命を
大切に生きていらっしゃいますか・・・?