〜 遠い国の静かな宇宙 〜
国立西洋美術館 で開催されている『チュルリョーニス展 内なる星図 』へ行ってきました。 (会期:2026年3月28日(土)〜6月14日(日))
正直なところ、私はこれまでチュルリョーニス という芸術家を知りませんでした。 けれど数ヶ月前、私と同じく仙台に住む友人が上野動物園を訪れ、「アート好きなあなたへ」と私のために、この展覧会のチラシを持ち帰ってきてくれたのです。
国立西洋美術館 展覧会『チュルリョーニス展 内なる星図』 チラシ(外面)
そして私は、そのチラシに載っている絵を見た瞬間、「これは好きかもしれない」と直感しました。
チュルリョーニスという芸術家
ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス (Mikalojus Konstantinas Čiurlionis 、1875年9月22日-1911年4月10日)は、バルト三国 の一つであるリトアニア を代表する芸術家です。
彼は画家 であると同時に作曲家 でもあり、音楽 と絵画 という二つの芸術分野で優れた才能を発揮しました。 ワルシャワ音楽院やライプツィヒ音楽院で音楽を学び、多くの楽曲を残す一方、30歳頃から本格的に絵画制作へ取り組み、わずか数年の間に300点以上の作品を生み出しました。
その作品には、森 や海 、星空 、神話 、宇宙 といったモチーフが繰り返し登場します。 しかし彼が描こうとしたのは単なる風景ではなく、その奥にある精神世界 や自然の神秘 でした。 音楽用語である「ソナタ 」や「フーガ 」を題名にした連作も多く、絵画と音楽を一つの世界として表現 しようとした独創的な芸術家なのです。
生前は必ずしも高い評価を得られませんでしたが、35歳という若さで亡くなった後、その才能は再評価され、現在ではリトアニアの国民的芸術家 として広く敬愛されています。 彼の名を冠した美術館や音楽学校も存在し、リトアニア文化を象徴 する存在の一人となっています。
国立西洋美術館 展覧会『チュルリョーニス展 内なる星図』 チラシ(中面)
まず、私が初めてチュルリョーニス の作品を観て感じたのは、そこには、静けさと激しさが同時に存在しているということでした。 星や森や海が描かれているのに、それは単なる風景ではなく、どこか心の奥にある宇宙 のようにも感じられる。 また、絵を見ているのに音楽を聴いているようで、音楽を聴いているのに風景を眺めているようでした。
チュルリョーニス 《第6ソナタ(星のソナタ):アレグロ》 &《第6ソナタ(星のソナタ):アンダンテ》
そして驚いたのが、チュルリョーニス が美術史の上でも「抽象絵画の先駆者の一人」 として認められるということです。
彼の作品には、山や森、海や星といったモチーフが描かれている一方で、現実の風景をそのまま再現することにはあまり関心がありませんでした。 むしろ彼が描こうとしたのは、音楽の響きや自然の神秘、そして人の内面に広がる精神世界であり、作品は次第に抽象性を帯びていきます。
チュルリョーニス がこうした表現に取り組んでいたのは1900年代初頭。 それは、私たちが美術の教科書で抽象絵画の先駆者であり巨匠として知るカンディンスキー (Wassily Kandinsky 、1866年12月16日-1944年12月13日)やモンドリアン (Piet Mondrian 、1872年3月7日-1944年2月1日)が本格的な抽象表現へ向かうよりも早い時期だったのです。
Wassily Kandinsky《Yellow-Red-Blue》 Public domain, via Wikimedia Commons
Piet Mondrian《CompositionⅡ》 Public domain, via Wikimedia Commons
また、チュルリョーニス は油絵のような重厚な絵画だけでなく、本の装丁、絵はがき、楽譜の表紙、リトアニア の伝統的な十字架のデザインなど、現代でいうグラフィックデザイン やエディトリアル(出版)デザイン の仕事も数多く手がけていました。 いわば、彼は、現代の「グラフィックデザイン」や「視覚伝達(ビジュアル・コミュニケーション)」の視点から見ても、驚くほど先進的なアプローチを行っていたクリエイターだったわけです。 このことは、生前は十分に理解されなかった彼の作品が、時代を超えて新たな価値を見出されている理由の一つなのかもしれません。
リトアニアという国とチュルリョーニス
チュルリョーニス が生きた時代にはロシア帝国の支配下にあったリトアニア は、現在、エストニア 、ラトビア と並ぶ「バルト三国 」の最南端に位置する国です。
実は私自身、数年前にエストニア を一人旅で訪れており、たいてい旅行本も「バルト三国 」でまとめられているので、その時点でリトアニア にはとても興味を持っていました。 その時にはリトアニア までは行けませんでしたが、私の中ではいつか行きたい国の一つとなっていたので、今回の展覧会が、リトアニア 出身の芸術家の作品によるものであると知った時、なおさら惹かれたわけなのです。
さて、リトアニア とはどんな国なのか。
正式名称はリトアニア共和国 (英語:Republic of Lithuania 、リトアニア語:Lietuvos Respublika )。 面積は約6.5万平方キロメートルと北海道の約8割ほどの大きさです。 人口は約280万人で、日本でいえば大都市レベルの人口規模ですが、ヨーロッパの歴史と文化の中で独自の存在感を持っています。 首都はヴィリニュス(Vilnius) 。 中世には巨大なリトアニア大公国 として栄え、一時はヨーロッパ有数の大国でした。 しかしその後は周辺諸国の支配を受け、19世紀にはロシア帝国、20世紀にはソ連の支配下に置かれるなど、決して平坦ではない歴史を歩んできました。 そして1990年、ソ連からの独立回復を宣言した最初の共和国となり、現在のリトアニア へとつながっています。
リトアニア を語るうえで欠かせないのが自然です。 国土の約3分の1が森林に覆われ、
が広がっています。 北欧の雄大なフィヨルドとは違い、どちらかといえば静かでやわらかな風景です。リトアニア人 の文化 や精神性 には、こうした自然との深い結びつき が今も色濃く残っています。
実はリトアニア には、ヨーロッパの中でも少し特別な歴史があります。 キリスト教化されたのが14世紀末と比較的遅く、それまで長く自然信仰や多神教的な世界観が残っていました。 そのため、
などを神聖なものとして敬う感覚が、今でも文化や芸術の中に息づいています。
チュルリョーニス の作品に、
が多く登場するのも、こうした土壌と無関係ではないでしょう。
また、リトアニア はしばしば「歌う国 」とも呼ばれます。 民謡や合唱文化が非常に盛んで、人々は古くから歌によって歴史や文化を受け継いできました。バルト三国 では1980年代後半、ソ連支配からの独立を求める人々が大規模な合唱集会を開きました。 この平和的な独立運動は「歌う革命 」と呼ばれています。
音楽 が人々の精神的な支えとなってきた国だからこそ、チュルリョーニス のような「画家であり作曲家でもある芸術家 」が国民的存在になったのかもしれません。
チュルリョーニス 《ピアノのための交響詩「海」の楽譜 草稿》
「リトアニア的ではない」と言われた芸術
しかしながら、生前のチュルリョーニス に対しては、「リトアニアらしくない 」という批判もあったそうです。 彼の作品は民族衣装や歴史的英雄を描くわけではなく、あまりにも幻想的で象徴的だったからでしょう。
ですが後年、
ここにはどれほどのリトアニア性が込められているだろう!
と評価する声が現れたとのこと。
それはおそらく、チュルリョーニス がリトアニア の風景そのものではなく、「リトアニア人が自然や世界と向き合う感覚そのもの 」を描いていたからだと思います。
森に漂う霧。 静かな湖面。 果てしない星空。 自然への畏敬と、どこか物悲しい美しさ。
彼の作品には、そうしたリトアニアの精神風土 が静かに息づいているように感じられます。
早すぎる死と、妻ソフィヤの存在
チュルリョーニス の人生を知るほどに、私は妻ソフィヤ の存在が気になりました。 今回の展示内ではソフィヤ のことについて事細かには説明されていませんが、図録やネットなどから私なりに紐解いてみました。
妻のソフィヤ・チュルリョーニエネ=キマンタイテ (Sofija Čiurlionienė-Kymantaitė 、1886年3月13日–1958年12月1日)は、単に「天才を支えた献身的な妻」という枠には収まらない、当時のリトアニア の文化・社会をリードした非常に聡明で自立した女性だったということです。
彼女は、美術や演劇を愛し、記者や文芸評論家として働きながら、自らも詩や小説を執筆していた創作者でした。 二人は互いの芸術を理解し合い、共に創作の道を歩もうとしていたといいます。
しかし、その時間はあまりにも短く終わってしまいました。 二人の結婚生活は、チュルリョーニス が精神を病んで入院するまでのわずか1年ほどでした。
チュルリョーニス 《レックス(王)》
オルガン奏者であった父を持つチュルリョーニス が、音楽の才能を開花させるのは幼少の頃ですが、画家としての彼の活動期間は、1903年から1909年までの実質わずか6年ほど でした。 この短い間に、彼は300点以上の絵画作品や無数の楽曲を残しています。 寝る間も惜しんで創作に没頭する一方で、経済的な困窮も重なり、心身は限界を迎えていました。
代表作である大作『レックス(王)』 を完成させた1909年の年末には、深刻な燃え尽き症候群(バーンアウト)と深い鬱状態に陥ってしまいます。 精神科医から「極度の精神的・身体的消耗」と診断された彼は、1910年の初めから、ワルシャワ近郊にある「ツェルヴォニ・ドゥヴル(赤い館)」という静かなサナトリウム(療養所)に入院することになりました。
悲劇が起きたのは、翌年1911年の3月末。 体調が良くなってきたため散歩に出かけたところ、運悪く風邪をひいてしまい、それが重い肺炎を併発してしまって、帰らぬ人となってしまったのです。 35歳という若さでした。
けれど彼の芸術はそこで終わりませんでした。 作品を守り、その価値を信じ続けた人がいたからです。
チュルリョーニス が35歳で亡くなったとき、ソフィヤ はまだ25歳で、生後数ヶ月の幼い娘ダヌテ を抱えていました。チュルリョーニス と娘が会うことも叶わぬまま、ソフィヤ はシングルマザーとなってしまうのです。 過酷な運命に直面した彼女でしたが、そこからの人生でリトアニア の文化に計り知れない貢献を残しました。
このソフィヤ の存在を知ったとき、私はチュルリョーニス の物語は一人の天才の物語ではなく、二人で紡がれた物語でもあったのだと感じました。
国立西洋美術館 展覧会『チュルリョーニス展 内なる星図』 図録 チラシ クッキー缶
日本との不思議な縁そして私が感じた縁
生前のチュルリョーニス の評価は、決して高いものばかりではなく、戸惑いや批判の声も少なくなかったというのは、彼の作品は時代を少し先取りしすぎていたからなのかもしれません。
それでも彼は、音楽を奏で、絵を描き、自らの国の文化に貢献しようと創り続けました。 そして彼の死後、妻ソフィヤ やその価値を信じた人々が作品を守り続け、やがて時代は彼に追いつきます。チュルリョーニス はリトアニア を代表する芸術家として再評価され、その作品は国の大切な文化遺産となりました。
VIDEO
国立西洋美術館研究員による解説『チュルリョーニス展 内なる星図』 (本展覧会場入口でも放映されている動画ですが、展示を観る前と実際に観た後ではまた印象が変わるかもしれません)
さらに興味深いことに、リトアニア独立回復 後に企画された大規模回顧展の海外での最初の開催地は、なんと日本だったのです。
今回の展覧会『チュルリョーニス展 内なる星図 』のチラシには”祖国リトアニアにおける生誕150周年の祝賀ムードを引き継いで開催される本展は、日本では34年ぶりの回顧展。” と明記されていたので、展覧会に行く前には、「私は10代の時だし知らなかったど、日本でも過去にこの人の展覧会されたことあったのか」程度にしか思っていませんでした。 が、意外にもそれが世界に先駆けてだったとは ──
1992年 、セゾン美術館 で開催された『チュルリョーニス展 ─ リトアニア世紀末の幻想と神秘』 。 天皇陛下(現:明仁上皇陛下)も鑑賞されたとのこと。 当時、日本で世界初の回顧展が開催された背景には、ソ連から独立したばかりのリトアニア が自国の偉大な文化を世界にアピールしたかったタイミングと、当時の日本の圧倒的なカルチャー発信力、そしてソ連時代からチュルリョーニス を熱心に研究し信頼関係を築いていた日本の専門家たちの情熱が、奇跡的に合致したというドラマがあったのだそうです。
100年以上前に生きた一人の芸術家と、遠く離れた日本。 その不思議な縁に、私は少し心を動かされました。
チュルリョーニス 自身は日本を訪れたことがありません。 しかし19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを席巻したジャポニスム の影響は、彼の時代にも及んでいました。
作品の中には、日本美術を思わせる平面的な構成や、余白を活かした空間表現、自然へのまなざしを感じることもあります。 どこか日本人の感性と響き合うものがあるのです。 だからこそ私は、日本で最初の大回顧展が開催されたことを知ったとき、不思議な偶然というより、どこか必然のようにも感じました。
チュルリョーニス 《第5ソナタ(海のソナタ):フィナーレ》 (葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》を参照したと思われる作品)
そして、私にとっては、友人が何気なく持ち帰ってくれた一枚のチラシから始まった今回の出会い・・・ その先には、一人の芸術家だけでなく、リトアニア という国の歴史や文化、そして日本との意外なつながりが広がっていました。
遠い国の静かな宇宙 は、思いがけず私の心の近くまで届いていたのです。
リトアニア を旅するイメージもますます広がり、この展覧会に足を運んだ後も至福に包まれています。 心から、感謝。。。
国立西洋美術館
あなたにも 遠い国から届いた 宝物はありますか?