〜 ニューヨークで出会った画家との再会 〜
東京上野で開催されている『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』を観てきました。
(会期:2026年4月28日(火)~7月5日(日))
20世紀アメリカを代表する具象画家であり、静寂と孤独、そして人々の記憶を描いたとして知られている、アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth, 1917年7月12日-2009年1月16日)の展覧会が、米国建国250周年と東京都美術館開館100周年を記念する今年、ここ日本では17年ぶりかつワイエスの没後初めて、開催されることとなったのです。
私にとってアンドリュー・ワイエスは、以前から特別な画家の一人です。
初めて彼の作品を見たのは2017年にアートに特化したツアーに参加し、ニューヨークを訪れた時のことでした。
当時の私は、今ほど近現代美術に親しんでいたわけではありません。
それでも、ニューヨーク近代美術館(MoMA : Museum of Modern Art)で目にしたワイエスの作品に、不思議と心を惹かれたのです。
ところで、アメリカの国民的画家と言われているワイエスですが、意外にも、MoMAが所蔵する彼の作品は《クリスティーナの世界(Christina’s World)》*の1点きりとのこと。
*この作品の画像はMoMAの公式サイト(https://www.moma.org/collection/works/78455)にて見ることができます。
『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』では残念ながら出展されていませんが代表作として有名な作品です。
1948年にワイエスが《クリスティーナの世界》を描いた翌年(1949年)、MoMAの初代館長であったアルフレッド・バー・Jr(Alfred Hamilton Barr Jr., 1902年1月28日-1981年5月15日)がこの作品の価値をいち早く見抜いて買い取りました。
が、その後、MoMAの収集方針は抽象表現主義やポップアートなどの前衛的なモダンアートへとシフトしていきます。
一方で、伝統的な技法で具象的に描くワイエスのスタイルは当時の先端的なモダンアートの主流から外れたため、追加でコレクションされる機会がなかったというのがその理由のようです。
しかし、私にとって初めて目にしたワイエスの作品がその《クリスティーナの世界》1点のみでも、強く胸を打たれたのです。
本作は、病で歩行が困難になりながらも車椅子を拒み、這って進むことを選んだ隣人の女性クリスティーナをモデルに、「過酷な運命を懸命に克服する人間の生命力」を描いた作品です。
MoMAではせっかく撮影可能だったにも関わらず、感銘して見惚れてるうちに、人も集まり良いアングルを得られず写真を撮り損ねてしまったのですが、しっかりと記憶に残り、それ以来、ずっと心に残り続ける画家の一人となったのです。
そのようなことから「もっとこの人の作品を見てみたい」と思ったわけですが、日本で彼の作品に出会う機会は決して多くありません。
後に、福島県立美術館を訪れた際、同館が所蔵しているワイエスの作品6点を常設展で観ることができ、とても驚いたことを覚えています。
私が住む宮城のお隣の県で、彼の作品が6点も保管されていただなんて…
そしてそれからさらに数年後となる今回、ようやくまとまった数の作品をじっくり鑑賞できる機会を得ることができたのです。
(チラシ画像はクリックするとPDF画面が開き拡大できます)
チュルリョーニスとは違う静けさ
今回の上野行きの目的は、同時期に鑑賞した『チュルリョーニス展』でもありました。
どちらも静かな世界観を持つ画家ですが、私にはその静けさが全く異なるものに感じられました。
チュルリョーニスの作品からは、音楽が聞こえてくるような感覚があります。
星々が巡り、風が流れ、世界そのものが呼吸しているような…
静かでありながら、内側では壮大な宇宙が動いているのです。
一方、ワイエスの世界は違います。
ほぼ無音に近く、聞こえるとしたら、
風が草を揺らす音。
遠くの鳥の声。
古い家屋が軋む音。
そんな自然の気配だけ。
それ以外の音は、ほとんど存在しません。
「何も起きない」のに濃密な世界
ワイエスの作品を見ていて感じるのは、「何も起きていない」ということです。
劇的な出来事もない。
派手な色彩もない。
強いメッセージもない。
けれど、その「何も起きない」が濃密なのです。
空き部屋。
閉ざされた窓。
誰もいない野原。
本来なら何もないはずの場所なのに、そこには確かに人の気配や記憶が残っています。
まるで、「さっきまで誰かがここにいた」そんな感覚を覚えることがあります。
死ではなく、時間の気配
ワイエスの作品には、どこか寂しさがあります。
父親を突然の事故で亡くした経験や、幼少の頃には病弱で一般的な子供のように学校には行けなかったような彼自身の人生背景を知ると、その理由も少し見えてくるように思います。
ただ、不思議なことに「怖さ」は感じません。
死を描いているというより、「いつか失われるもの」への静かなまなざし。
そんな印象を受けるのです。
だからこそ、彼の作品の前に立つと心が静まります。
そして、自分自身の記憶や時間について考え始めてしまうのです。
”境界に立つとき、心が動き出す”
さて私は、『東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展』観覧後、この記事を綴るためにブログ用の写真を撮影していて、ふと気がつきました。
図録の表紙に選ばれている作品《ヒトデ(Star Fish)》。
そして記念に購入したクッキー缶に描かれている作品《ゼラニウム(Geraniums)》。
さらに、展覧会場で撮影可能な作品だった中で、私自身が直感的にこれ好きだなと感じて撮影していた2枚限りの写真。
私にとってはどれも偶然のように思えたのですが、すべてに「窓」が描かれていたのです。

実は、私は昔から「窓」というモチーフが好きです。
けれど、その時は全く意識していませんでした。
だからこそ、無意識のうちに選んでいたことに少し驚きました。
しかしそもそもこの展覧会には『Boundaries or Windows』という副題が添えられていました。
これを直訳したら「境界線それとも窓」となりますが、改めてチラシを見返すと”境界に立つとき、心が動き出す。”という言葉が記されていました。
「窓」こそ、今回の展覧会全体のテーマの象徴だったのです。
窓の向こうにあるもの
私自身が心を惹かれ撮影した二つの作品を見返してみます。
《乗船の一行(Bording Party)》は、窓の外に見える帆船によって、旅立ちや不在を想像させる作品です。
そこにいるはずの人々は描かれていないのに、窓の向こうに広がる世界によって物語が生まれています。

一方、《ケネットの集会場(Kennett Meeting)》は、クエーカー教徒の集会所を描いた作品です。
人々が集い、語り合い、そして別れを迎える場所。
ワイエス自身も「窓の配置が美しい」と語ったそうですが、父N.C.ワイエスの葬儀が行われた集会所とも重なる背景を知ると、その窓がより特別なものに見えてきます。

ワイエスが描く窓は単なる建築の一部ではなく、
内と外、
現在と記憶、
ここにいる自分と、その向こうにある世界。
そうした境界を静かにつないでいるように感じます。
思いがけない「ゼラニウム」とのつながり
そしてもうひとつ、これはかなり個人的なことではありますが、驚いたことがありました。
展覧会特設ショップで購入するに至ったクッキー缶。
こちらに採用されている作品も窓が描かれたもので、私は「これも好きな作品だな、缶に配色された色もデザインも悪くないし、エッセンシャルオイル(精油)の保管にちょうど良いサイズ感かも」と思い購入したのです。
その時は作品名まで確認していなかったのですが、帰宅してからこの作品名が《ゼラニウム》だったことに気づき、思わず笑ってしまいました。
実は私はゼラニウム精油の香りが大好きで、常備しているエッセンシャルオイルの一つなのです。
偶然なのか、ご縁なのか。
そんな小さなサプライズも含めて、今回のワイエス展は私にとって印象深い時間になりました。

静寂の中に身を置く
念願だった、たくさんのワイエス作品を見ることができて、本当に嬉しく、幸せでした。
展覧会を見終えた後も、強烈な感動というよりは、静かな余韻が残っています。
振り返ってみると、私は昔からこうした作品に惹かれてきたのかもしれません。
大きな声で語りかける作品ではなく、静かな余白の中に物語が宿る作品 ──
ワイエスの絵の前に立っていると、そんな自分自身の好みも改めて見えてくるようでした。。。

東京都美術館
住所:東京都台東区上野公園8−36
Webサイト:https://www.tobikan.jp/



