あの日から10周年の今日

2021年3月11日 東日本大震災追悼式


2011(平成23)年3月11日(金) 14時46分に起きた東北地方太平洋沖地震による大災害。
あの日から、10周年を迎える今日。

私は、宮城県名取市の港町である閖上(ゆりあげ)が出身地であるとともに、母の実家が仙台空港付近である北釜地区(名取市)で、身内では母方の祖母と叔父がなくなっているので、毎年、名取市主催の追悼式に参列しています。

名取市の追悼式は名取市文化会館で行われます。
ここには、画家だった祖父の絵を飾っていただいているので、その作品とも対面できる時間を持つこともできるのが、個人的にはありがたいのです。
実家は完全に流失し、実家にあった祖父の作品も全て失われてしまったので、こうした所に残されているのが、遺族としては、本当にありがたいことなのです。

昨年は、コロナによって、式は中止となり、献花だけが可能でした。
かなり人がまばらで、虚しかったのを覚えています。

今年は、コロナ禍の中でもなんとか無事迎えられた式典。
新天皇そして新総理大臣も初めてとなる追悼式です。
このような点からも、節目の10年という感じがしました。

とはいえ、もう10年であり、まだ10年・・・
今日の式での遺族代表者の方による言葉にあった「心の復興は終わらない」といフレーズが、耳に残っています。

今日は朝から爽やかで、1日中穏やかなお天気に恵まれましたが、10年前のあの日は地震後、雪に見舞われました。
私は、勤めていた職場から徒歩で当時住んでいた自宅へ3時間近く歩いて帰ることにはなりましたが、自分の部屋で夜を越すことができました。
一方で、私の実家に住んでいた祖母や義妹とその子供達を含む大勢の人が、寒空の下で、ひどい光景を目の当たりにながら、夜を越すことになったのです。

今日、静かで平和な朝を迎えられたことに、これほど感じる感謝の念。
あの日がなかったら、こんな気持ちも持つことはなかったかもしれません。
生かされたことには何か意味があるのだろう。
そう思って、明日も生きていきます。


あの日から
あなたにとっては
どんな10年間でしたか…?


地震による傷口を覆う誓い

‘想い’は ‘誓い’と言えるほど強いものに


昨晩(2月13日)、23時7分、福島県沖の大きな地震がありました。
ここ仙台、私の住む地域は震度5強だったそうです。

発生時は、3.11の時の感覚が蘇り「またなの・・・?」という言いようのない恐怖感。
何もなすすべなく、部屋の一番安全と思われる場所で、ただ膝を抱えて、待つだけ・・・

でも、揺れが収まってからは、10年前より多分マシというのが直感としてありました。

とはいえ、部屋は大変なことに・・・
一番大きな本棚が倒れ、キッチンも物が散乱し食器類もいくつか割れ、古いマンションで、住んだ時からたてつけが悪かった玄関の収納は案の定めちゃくちゃ・・・

部屋はこの通りひどい惨状だけど、でも、運よく、携帯も使え、ネットも見られる、電気やガス、水道といったライフラインは問題ない、津波の心配はないってことだし、翌日は日曜、部屋さえ綺麗にすればいいだけ。
過去の経験があるからこそ、昨晩の時点で、そういう安心感はありました。

だけど、大丈夫なのはわかってるんだけど、心臓の鼓動が平常ではない。
心が落ち着かず、ざわつく。
私は軽度だと思うけど、こういうのをPTSD:心的外傷後ストレス障害というのでしょう。

私でさえこうなんだから、相当な不安感を抱え、震えている人もいるだろうな・・・

一度受けた深い傷というのは、いくら年月が経っても、そう癒えるものではない。
傍目にはわからないけど、苦しんでいる人がいるってこと、癒しを必要としている人がいるってこと、忘れないで、私に何ができるか考えよう。
そんなことを改めて思いました。

熟睡などできるはずもなく、疲労感と共に朝を迎えて、変わり果てた部屋の様子に呆然としながらも、重い腰を上げ、ちょっと片付けてはため息をつき、人には動かすのが大変な棚などが動いていることに、自然の力ってすごいなと恐怖を抱くと共に関心もしつつ、やる気を失くす、の繰り返し。
全くもって、作業がはかどりません。

もう、あんまり頑張らないで、休憩入れがらやろう・・・
カオスなキッチンでお湯を沸かし、コーヒーを入れて、一服し、散々な部屋をボーッと眺めつつ思うのは、

厳しい試練をどうしてこうも与えられるんだろう・・・

目指しているのはオアシスなのか破壊された世界なのかという混沌とした現代にいる私たちに対して、人としての本来の心を失うな、生かされていることに感謝し、豊かな心を保つようにと、自然の怒りを使って神様が教えてくれてるのかなぁ

やっぱり、人生、大切に生きなきゃ・・・

いつ何が起こるか、わからない。
備えも大事だけど、先のことばかり考えて、不安を抱えて生きるよりも、今を幸せに生きることを考えよう。

仕事や与えられた使命に心込めて取り組みながら、コロナ禍という制限がある中でも、やりたいこと出来ることはやろう、行けるところには行こう、会いたい人には会って、感謝の気持ちを伝えよう。

遅かれ早かれ命は尽きるのだから。
その時に後悔がないように。
充実と、最高のありがとうの気持ちを感じて、自分の人生に幕を閉じることができるように。

これまで抱いていた‘想い’が、‘誓い’というさらに強いものに変わったように感じています。


あなたの
人生に対しての
誓いはなんですか?


あの日からもうすぐ10年

東日本大震災から静かに復興している閖上


年明け初めて、自分の生まれた地「閖上(ゆりあげ)」に行って来ました。
閖上は、宮城県名取市の港町です。

少し雲がかってはいましたが、寒さ和らぎ爽やかなお天気に恵まれ、気持ち安らぐ時間を持つことができました。

2011年3月11日、東日本大震災が発生したあの日から、もうすぐ10年という節目を迎えます。

無慈悲にも壊滅してしまった閖上ですが、ゆっくりと静かに復興しています。

閖上の砂浜と穏やかな太平洋。
この海があのおぞましい津波と化したとは想像もしたくないです。

あの津波を受けて、長い長い堤防が設けられました。
今では、散歩、ランニングにはうってつけの環境。

そして、昨年(2020年)10月には「名取市サイクルスポーツセンター」が復活をとげました。

同施設は、1975年に開設され、私にとってはもちろん、閖上で生まれ育った人なら何度となく訪れたであろう思い出の場所。

1周4キロの「サイクリングロード」や「おもしろ自転車広場」に、スポーツコート、さらには日帰り入浴も可能な天然温泉も備えた名取ゆりあげ温泉「輪りんの宿」が併設され、震災前より充実したレクリエーション施設として復活した「名取市サイクルスポーツセンター」。
東北の新しいレジャースポットとして再出発されたこと、閖上出身者として、とても嬉しく思います。

宿泊施設「輪りんの宿」の屋上からは、広大な景色を臨むことができます。

伊達政宗の命じにより物資輸送のために開削された貞山堀(ていざんぼり/貞山運河)の周辺も、綺麗に整備され、喧騒のない静かな時間を過ごすことができます。

貞山堀を挟んで「名取市サイクルスポーツセンター」の対岸側は、釣り船の出船場となっています。
手ぶらで釣りが楽しめるサービスなどもあるそうですよ。

閖上港朝市が開かれる場所付近の堤防も整備され、そこから眺める並んだヨットと広浦湾の風景は、昔と似ている部分もあり、ノスタルジーを感じます。

あの日からもうすぐ10年。
変わってしまったけれども、懐かしい風景もあり、私のルーツはここにあることに変わりないんだなと感じるとともに、生かされていることに感謝し、この尊い命を精一杯、大切に生きようと、改めて思えました。

清々しくも穏やかで、幸せな時を過ごせたことに、心からありがとう・・・


名取市サイクルスポーツセンターのWEBサイト


あなたの
大切な場所は
どこですか?

震災を経て9年の閖上(ゆりあげ)の海

まちは生まれ変わっても、海の景色は変わらない


本日、2020年7月23日(木)は、海の日、日本国民の祝日です。
通常は、7月の第3月曜日が海の日とされていますが、今年は、オリンピックがある予定だったために日程が調整されました。
新型コロナにより、オリンピックは延期され、その意味はなさないものとはなりましたが、毎日忙しく働く日本人にとって、祝日があるというのはやはり嬉しいことですね。

ところで、「海の日」というのは、海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願うために制定されているのだそうです。

内閣府HP:「国民の祝日」について

というわけで、本日は、私の生まれ育った海のまち閖上(ゆりあげ)について、現在の様子を、写真にて紹介させていただこうと思います。

閖上は、宮城県仙台市の隣に位置し、仙台空港の所在地でもある名取市のまちの一つで、太平洋に面した地区です。
江戸時代には仙台藩直轄の港で、仙台に魚介類を売り栄えました。
伊達政宗が掘らせたという日本最長の運河「貞山運河」(地元では貞山掘り(ていざんぼり)と言ってます)を使い仙台城下に海産物を運んだのだそうです。

現在の貞山堀

そんな歴史と海に幸に恵まれた地区ではありますが、2011年3月11日、発生した大地震によって、最大浸水高9.09mの津波に襲われた閖上の沿岸部は、完全に飲み込まれてしまいました。

今年(2020年)5月に「名取市震災復興伝承館」がオープン。見学は無料です。

私の実家も、港のすぐそばでしたので、根こそぎ流されてしまいました。
震災後、復興に尽力する人々もいる中、私はなかなか訪れる気になれなかったのですが、この度、初めて数時間、自分が生まれ育った閖上に滞在しました。

伝承館内には宮城県の学生さんらによって作られた、当時を再現したジオラマがあります。
私の家はこの辺り。ちゃんと名前があったので嬉しいです。
私の家があったあたりは、現在では工場地帯となっています。

すっかり町並みは変わってしまい、どこに来たのかわからない寂しい気持ちになってしまうのが、ここで育った人間としての正直な心情ですが、海の静かな情景と、塩と磯の香りに懐かしさを感じました。

ヨットハーバーは震災前よりずっと広く立派になりました。

子供の頃、港が遊び場の一つでした。
再生されてはいますが、現在のこの港の風景は、当時の様子に近いものがあり、なんだかとてもホッとする気持ちになりました。

この雰囲気は震災前にだいぶ近いです。
昔ながらの魚市場もなければ船も減ってしまいましたが・・・
港の対岸

津波という悲劇に見舞われましたが、普段はこんなに穏やかな景色。


震災前同様、釣りを楽しむ人も大勢います。

震災前に比べて、釣りもしやすくなったように見えます。
私は釣りしないんで、よくわかりませんけれども・・・
2019年にオープンしたかわまちテラス閖上
食事やスイーツ、この地の特産物を見て食べて楽しめる、色々なお店が並んでいます。

浜や食堂」さんで「しらすW丼」をいただきました。
閖上産北限しらすの生しらすと釜揚げしらすの丼ぶりです。
テラスで海を眺めながら食事が楽しめます♪

浜やさんのインスタグラムはこちら

対岸に見える小高い丘は、仙台市荒浜地区の「避難の丘
2020年5月に完成し、標高10m、頂上部は正方形で面積約5700㎡で、仙台市内にある5つの避難の丘で最大規模とのことです(2020年7月現在)。
この写真の奥に仙台のまちが広がっています。
釣りをしている人たちの前に流れるのが名取川で、この対岸が仙台市です。

この海に襲われたのは悲しいことではありますが、その、人間に対する自然の怒りによって、いろんなことを考えるきっかけになったし、やっぱり、自分の育った場所の海って愛しいんだなー、この海に囲まれた島国としての日本だからこそ、誇れるものや恩恵がたくさんあるんだなーと、しみじみと感じ、改めて感謝しました。


あなたの
思い出の海は
どこですか?

臨床美術を初体験した時の感動 その1

臨床美術に出会うまで 〜東日本大震災というきっかけ〜

2011(H23)年3月11日(金)14時46分18秒、東日本大震災(総務省消防庁の記録写真)が起きました。
誰もがショックを受けた大事件でしたが、私自身も直接的なダメージを受けるとは、本当に信じられないことでした。

私は、赤貝で知られる港町、名取市閖上(なとりしゆりあげ)の出身です。
震災当時は、実家を離れ、名取駅そばに住み、仙台市の職場に通っていました。
実家は、毎朝競りの声が響く港のすぐ近く。子供の頃から、地震の時は津波が来たらどうしようと怯えたものでしたから、大地震が起きたその日は、実家や家族がどうなってしまうかとそれまで感じたことのない恐怖に襲われました。

幸いにも、当時住んでいた祖母と弟夫婦一家は無事でしたが、実家は根こそぎ流され、身内では、母方の祖母が津波により亡くなりました。
そして、その翌年の1月には、震災で心を病んだ叔父が自死しました。

叔父は、私のことを常に気にかけてくれていて、父が癌で亡くなり、その後母が家を出ていった後も、誰より私を支えてくれた、私にとって兄であり父のような存在でした。人望もあり、常にリーダーシップを取って、周りを盛り上げるような人でした。そんな叔父が精神を病み、見た目まで小さくなっていく姿は、見ていてとても辛かったのですが、私は、何もできませんでした。

この頃、私は命について深く深く考えました。

なんでみんな死んでいってしまうの?
私は良い歳して独り身で、そのくせ大したこともしていない、私みたいな人間のほうが生きているのに相応しくないのに。
なんで私なんかが生きているんだろう?
私なんか、生きている意味ない・・・

はじめに」でも触れました通り、震災以前から、生きているのが辛いと感じていたような私には、そんな思いが長いこと強かったのですが、ある時、私は生かされているんだという気持ちになりました。

地元で震災があったにも関わらず無事だった自分に比べれば、もっとずっとひどい思いをしている人がたくさんいることや、私自身何度も体験している身近な人を失った時の悲しみを考えると、こんな私でも、死んだりしたら、誰かは悲しんだり、少なくとも人に迷惑をかけてしまう、といったことを改めて考え、気持ちが変わってきたのです。

「与えられた命を全うし、世の役に立ちなさい」と神様仏様に言われているのではないか?
そうとらえて生きていこう、と思えるようになったのでした。

そんな時に出会ったのが臨床美術です。
臨床美術に、私は魂が震えるような感覚を得て、自分自身の心の中にも周りにもあたたかい世界を広げる可能性を感じることができたのです。

…ここまでのお話が長くなってしまいました。お読みいただき、ありがとうございました。
短くまとめるつもりだったのですが、やっぱりこの経緯とかきっかけとかが今の自分にとって大切であるように感じるので、記しておくことにします。

また次回に、本題の臨床美術の初体験について書かせていただきます。
ご興味持っていただけるようでしたら、続けてご覧いただけましたら嬉しいです。


この記事の続きは、こちらです↓
臨床美術を初体験した時の感動 その2


あなたは与えられた命を
大切に生きていらっしゃいますか・・・?