〜 そして、帰る(還る)ことの意味〜
今年(2026年)、最も楽しみにしていた映画のひとつ、クリストファー・ノーラン(Sir Christopher Nolan)監督の『オデュッセイア(原題: The Odyssey)』を観てきました。
さすがノーラン監督。そして、そうそうたる俳優陣。
壮大な映像と音、次々と現れる神話の世界に圧倒されながら、約3時間という上映時間を駆け抜けたような感覚でした。
けれど、映画館を出てから残ったのは、単に「すごい映画を観た」という興奮だけではありませんでした。
人はなぜ戦うのだろう。
なぜ他者から奪うのだろう。
そして、戦った人間にとって「故郷へ帰る」とは、どういうことなのだろう。
そんなことを、ずっと考えています。
私とギリシャ神話の最初の出会い
私がギリシャ神話に惹かれるようになったきっかけは、小学生時代に父が見せてくれた映画『タイタンの戦い(原題: Clash of the Titans)』(1981年版)でした。
1981年に公開された、レイ・ハリーハウゼン(Ray Harryhausen、1920年6月29日 – 2013年5月7日)製作によるストップモーション・アニメーションが印象的な作品です。
中でも忘れられないのが、髪の毛が無数の蛇で、見た者を石に変える力を持つ怪物メデューサ。
怖かった。
とにかく怖かった。
でも、暗闇の中、いつ現れるのかわからないメデューサにハラハラしながら、それでも目を逸らしたくなるような「ホラー」とは少し違いました。
怖いのに、この先どうなるのか知りたい。
英雄ペルセウスの行方は?
囚われた王女アンドロメダはどうなるの?
そんな気持ちのほうが勝っていたのだと思います。
家にはVHSビデオ(当時の主流媒体)があったので、その後も繰り返し観ました。
そうしていつの間にか、神々と人間が同じ世界に存在し、怪物が現れ、運命と人間の意志が交錯するギリシャ神話の世界そのものに惹かれていったように思います。
ハリーハウゼンからノーランへ
そして今回、映画を観た後に『オデュッセイア』のパンフレットを読んでいて、思わず唸りたくなった部分があります。
ノーラン監督自身も、SFX(特殊効果・特殊撮影)のパイオニアであるレイ・ハリーハウゼンの技術を取り入れた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』といった作品に敬意を抱いているというのです。
これを知ったとき、妙に納得してしまいました。
子どもの頃、『タイタンの戦い』に夢中になった私。
そして、そのような映画に敬意を抱いてきたクリストファー・ノーランが、2026年に『オデュッセイア』を映画にする。
もちろん私とノーラン監督を同列に並べるつもりはありません(苦笑)。
でも、遠く離れたところで同じ映画から伸びていた線が、何十年も経って『オデュッセイア』という一本の映画で交差したようで、なんだか不思議な気持ちになりました。
そして、映画史上初の「全編IMAX撮影」
もちろんIMAXで鑑賞しました。
映画『オデュッセイア』について触れておきたいのが、この作品が長編劇映画として史上初めて、全編をIMAXフィルムカメラで撮影された作品だということです。
「でも、IMAX上映の映画ならこれまでにもたくさんあったのでは?」
私自身、最初はそんなふうにも思いました。
ところが、「IMAXで上映される映画」と「IMAXカメラで撮影された映画」は同じではありません。
通常の映画用カメラで撮影された作品でも、IMAX向けに調整してIMAXシアターで上映することはできます。
また、IMAXカメラを使用した作品でも、これまでは映画全編ではなく、特に迫力を見せたい場面など一部のシーンで使用されることが少なくありませんでした。
ノーラン監督自身、これまでも『ダークナイト』『インターステラー』『ダンケルク』『オッペンハイマー』などでIMAXフィルム撮影を積極的に取り入れてきました。
それでも、全編をIMAXフィルムカメラで撮影することには大きな壁がありました。
IMAXフィルムカメラは大きく、重く、そして撮影時の作動音も大きい。
壮大な風景や激しいアクションを撮るには適していても、俳優同士が静かに言葉を交わす場面で同時に音声を収録するとなると、その作動音が問題になります。
そこで今回、ノーラン監督と撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマ(Hoyte van Hoytema)、そしてIMAX側が協力し、新しいカメラや防音技術を開発。
それによって初めて、
壮大な海も
戦闘も
神話の怪物たちも
そして、人間の顔や静かな会話も
すべてをIMAXフィルムで撮影することが可能になったのだそうです。
興味深いのは、ノーラン監督がIMAXを単に「巨大なものを巨大に見せるため」の技術として考えていないことです。
『オッペンハイマー』でIMAXカメラが捉えた主演キリアン・マーフィーの顔に強い可能性を感じ、今回の『オデュッセイア』では、壮大な風景だけではなく、俳優たちの演技や親密な場面にもIMAXを使いたいと考えたといいます。
これは映画を観終えた後に知ると、とても興味深い話でした。
『オデュッセイア』といえば、海、船、戦争、怪物、神々……
確かにIMAXとの相性が良さそうなものばかりです。
けれど、その巨大な世界の中心にいるのは、あくまでひとりの人間。
戦い、迷い、失い、それでも故郷へ帰ろうとするオデュッセウスです。
その人間の「顔」まで巨大なIMAXの世界で捉える。
だからこそ、この作品の圧倒的なスケールと、ひとりの人間の物語が両立していたのかもしれません。
そして考えてみると、これも私には不思議なつながりに思えます。
子どもの頃、私をギリシャ神話の世界へ連れていってくれたのは、レイ・ハリーハウゼンのストップモーションでした。
人形をほんの少しずつ動かし、一コマずつ撮影することで、存在しないはずの怪物に命を吹き込んだ時代。
そして何十年も経った2026年。
同じようにギリシャ神話を愛した映画監督が、今度は映画史上初となる全編IMAXフィルム撮影という方法で、およそ3000年前の物語をスクリーンに蘇らせる。
映画をつくる技術は、驚くほど変わりました。
それでも映画がやろうとしていることは、案外変わっていないのかもしれません。
そこには存在しない世界を目の前に出現させ、観客を物語の中へ連れていくこと──
子どもの頃、『タイタンの戦い』のメデューサを息を詰めて見ていた私が、今度はIMAXの巨大なスクリーンの前で『オデュッセイア』に圧倒されている。
そう考えると、映画というもの自体が、「長い旅」を続けているようにも思えてきます。

実は私も『オデュッセイア』をちゃんと知らなかった
さて、ギリシャ神話が好きだと言いながら、少し恥ずかしい話ですが、私はホメロスの『イリアス』『オデュッセイア』をきちんと読んできたわけではありません。
もちろん、トロイア戦争やオデュッセウス、アキレウス、ポセイドン、アテナ、キュクロプス、セイレーンなど、断片的には知っています。
でも、それらを古代ギリシャの叙事詩として体系的に理解しているかと言われれば、そうではありません。
だから今回の映画も、「原典を知り尽くした人間」として観たわけではありません。
むしろ映画を観たことで、改めて『イリアス』『オデュッセイア』とは何だったのだろう、と掘り下げてみたくなりました。
『イリアス』と『オデュッセイア』は、ともに古代ギリシャの詩人ホメロスの作と伝えられる叙事詩。
成立したのは紀元前8世紀〜前7世紀頃と考えられており、約3000年ものあいだ語り継がれてきた、西洋文学の源流ともいえる物語です。
この二つの作品名そのものにも意味があります。
『イリアス』は、トロイアの別名「イリオン」に由来し、いわば「イリオン(トロイア)の物語」。
一方の『オデュッセイア』は、主人公オデュッセウスの名前に由来する「オデュッセウスの物語」です。
つまり、一方は「場所」の名から、もう一方は「人」の名から生まれたタイトルなのです。
また、これらの作品の背景にあるのが、ギリシャ軍とトロイアの間で10年間続いたとされる「トロイア戦争」です。
『イリアス』は、その10年間すべてを描いているわけではありません。
戦争終盤のごく限られた期間を舞台に、ギリシャ軍最強の戦士アキレウスの「怒り」を中心として、戦う者たちの名誉、友情、喪失、復讐、そして死を描いています。
一方の『オデュッセイア』は、その戦争が終わった後の物語。
トロイア戦争を戦ったギリシャ側の英雄オデュッセウスが、故郷イタケ島へ帰ろうとするところから始まります。
ところが、その帰路はとてつもなく長いものになります。
一つ目巨人キュクロプス、人を豚に変えてしまう魔女キルケー、美しい歌声で船乗りを破滅へ誘うセイレーン、海の怪物スキュラ……
どこかで聞いたことのある怪物や物語が、実は『オデュッセイア』に由来していることも少なくありません。
さらに、オデュッセウスの旅には神々も深く関わります。
彼に怒り、帰還を妨げる海神ポセイドン。
一方で彼を助ける女神アテナ。
そして、この物語を理解するうえで興味深いのが、最高神ゼウスが守護する「客人をもてなす」という掟です。
古代ギリシャでは、見知らぬ旅人や客人を迎え入れ、食事や寝床を与え、もてなすことが神聖な務めとされていました。
これは「ゼウスの掟(クセニア/xenia)」と呼ばれ、客人の守護者でもあるゼウスのもと、人と人との間で守るべき重要な秩序と考えられていました。
『オデュッセイア』では、この「客をどう迎えるか」、そして反対に「客としてどう振る舞うか」が、物語の随所で繰り返し問われます。
長い旅の途中でオデュッセウスが受ける歓待もあれば、その掟が破られる場面もある。
人間だけで物事が進むのではなく、神々の意志と人間の意志が交錯しながら運命が動いていくところも、ギリシャ神話らしい世界です。
それから、今回改めて面白いと思ったことがあります。
英語の「odyssey(オデッセイ)」という言葉。
英語に疎い人でも、本国日本を代表する自動車メーカーの一つである本田技研工業(ホンダ)の車名として採用されているので、その言葉の響き自体はよく知っている人が多いことでしょう。
この言葉は、この物語のタイトル『オデュッセイア(The Odyssey)』に由来しているのです。
主人公はOdysseus(オデュッセウス)。
その長く困難な帰還の物語『The Odyssey(オデュッセイア)』から、現在では「長い冒険の旅」「波乱に満ちた遍歴」といった意味で、odysseyという言葉そのものが使われるようになりました。
そう考えると、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』の原題が『2001: A Space Odyssey』であることにも、なるほどと思います。
単なる「宇宙旅行」ではなく、「人間が未知の世界へ向かう壮大な旅」、あるいは「長い探求の物語」。
約3000年前に語られたオデュッセウスの旅が、ひとつの言葉となって、今もさまざまな物語の中に生き続けているのです。
そして、この物語で語られる時間もまた長い。
オデュッセウスはトロイア戦争で10年間を過ごし、さらに故郷へ帰るまでに10年を費やします。
妻ペネロペと息子テレマコスのもとを離れて、約20年。
『イリアス』が「戦う人間」の物語だとすれば、『オデュッセイア』は「戦いを終えた人間が帰ろうとする物語」と言えるのかもしれません。
そう考えると、「故郷へ帰る」という一見単純な目的が、まったく違う重みを持って見えてきます。

人はなぜ戦い、なぜ奪うのか
映画を観ている最中、強く感じていたことがあります。
それは「略奪」という行為でした。
現代の私たちから見れば、他者の土地へ行き、戦い、食料や財産を奪うという行為には当然大きな抵抗があります。
けれど歴史を遡れば、略奪は戦争と密接に結びついていました。
国家による安定した流通も、現代のような社会制度もない時代。
土地、食料、家畜、金属などを手に入れることは、そのまま共同体の生存や富につながります。
一方で、それは単純に「生きるため」だけだったのだろうか、とも思います。
富を得たい。
土地が欲しい。
力を示したい。
名誉を得たい。
相手を支配したい。
そこには、生存だけでは説明できない人間の欲望もあったはずです。
では、それは現代とまったく違うのでしょうか。
武器も、国家も、法律も、戦争の規模も、古代とは比較にならないほど変わりました。
それでも世界から戦争はなくなっていません。
領土、資源、安全保障、民族、宗教、政治、権力、恐怖、報復。
「自分たちが生きるため」という言葉と、「他者から奪う」という行為の境界は、ときに驚くほど曖昧になります。
約3000年前の物語を観ながら、私はいつの間にか現代のことを考えていました。
戦争が終われば、本当に帰れるのか
そして、もうひとつ。
戦争が終わったからといって、人はその瞬間に以前の自分へ戻れるのでしょうか。
10年間戦ったオデュッセウスが船に乗った瞬間、「戦士」から元の夫や父へ戻れるわけではありません。
戦争を経験した人間は、戦争以前と同じ人間ではない。
それでも、彼は帰ろうとする。
妻のもとへ。
息子のもとへ。
自分の国へ。
そう考えると、『オデュッセイア』は単なる「長い冒険の末に故郷へ帰る英雄の物語」ではなく、
「戦争を経験してしまった人間が、それでも帰ることはできるのか。」
そんな物語にも見えてきます。
「帰る(還る)」とは何なのだろう
ノーラン監督が、この映画にどこまで現代の戦争や人間社会への問いを込めたのか、私にはわかりません。
けれど、映画を観ながらこうしたことを考え、観終わった後にも問いが残り続けている。
それだけでも、この作品が単なる壮大なエンターテインメントではなかったことは、私にとって確かです。
怪物が現れ、神々が人間の運命に関わり、海を渡り、戦う。
映画として圧倒的に面白い。
でも、その壮大な物語の中心にあるものは、驚くほど素朴です。
「帰りたい ──。」
約3000年前につくられた物語のその願いが、2026年を生きる私にも理解できる。
社会が変わり、技術が変わり、人間の生き方がこれほど変わっても、私たちはいまだに戦い、失い、迷い、そして自分の帰る場所、本当の自分に還れるところ…を求めているのかもしれません。
子どもの頃、父と一緒に観た『タイタンの戦い』。
あのときは、メデューサが怖くて、それでも続きが知りたくて仕方がありませんでした。
そして何十年も経った今、同じギリシャ神話の世界を映画館で観ながら、今度は「人間とは何なのだろう」と考えている。
映画との出会いというのは、不思議なものです。
ひとつの物語が、何十年も経ってから別の物語につながり、こんなふうに自分の中に新しい問いを残していくことがあるのです。
約3000年前に生まれた『オデュッセイア』が、長い時を旅して、映画という形で私たちのもとへ届いた今。
映画をつくる技術がどれほど進化しても、その先にあるのは、物語を通して人間を見つめることなのかもしれません。
そして、長い旅の果てに故郷を目指したオデュッセウスのように、私たちもまた、それぞれの人生の中で何かを求めながら、自分の「帰る(還る)場所」を探し続けているのかもしれませんね。
映画『オデュッセイア』公式ホームページ:https://odyssey-film.jp/

