ただしい人から、たのしい人へ 第5章
心が救われる小林正観さんの著作「ただしい人から、たのしい人へ――そして『ありがとうの人』になる 」より、これまで第4章までを、特に心に留めておきたいと思った項目をピックアップしてご紹介して参りました。
今回は、最終となります第5章「楽しい生き方は、喜ばれる生き方」より、一部抜粋して、紹介させていただきます。
落ち込む人も、有頂天になる人も、自分を「大したものだ」と思っている人です。
それは驕(おご)り、高ぶり、うぬぼれ、傲慢(ごうまん)にほかなりません。
落ち込むのは、自分が「大したものだ」と思っているのに、
さほどの評価を得られなかったからです。
有頂天になるのは、自分が「大したものだ」と思っているところに
「大したものだ」「素晴らしい」という賞賛を浴びるからです。
自分が
「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」
と思いさだめることができたら、とても楽に生きることができます。
ちゃんとした人、いろんなことがきちんと全部できる人を、
多分「正しい人」と言うのだと思いますが、
もともと人間はそんなに正しく生きるようには
できていないように思います。
不完全で不十分で未熟。
やることなすこと完全にはできず、ミスばかり。
そういうものが積み重なって、人間があるのだと思います。
この正観さんのお言葉、ドキッとしませんでしたか?
でも、「不完全で不十分で未熟」それが人間なんだとも教えてくださり、ホッとしますよね。
非難され否定的なことを言われてしまうことや、逆におだてられその気にさせられるということも、生きていればよくありますが、自分は未熟なんだと謙虚な気持ちでいつもいられれば、落ち込むことも、有頂天になることもなく、いつもニュートラルで、心おだやかに過ごせるということかなと思います
競わない、比べない、争わない。
そこから「幸せ」を感じることができます。
「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」と思ったら、その人にのみ存在する。
「幸せ」は「感じるもの」であるならば、
なぜみんなはそれを感じることができないのでしょうか。
「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、
多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。
それはなぜか。
私たちは「競うこと」「比べること」「争うこと」を
前提として生きることを教え込まれてしまったからです。
自分自身の生活の中で
「他人と比べない」「世間と比べない」ということが身についたら、
生きることがどれほど楽になるかわかりません。
人より抜きんでることが偉くて、立派。そういう教育の中で生きてきてしまった私たち。
この現代、心を病む人が多いのも、当たり前なような気がします。
そろそろ、「競争」するのではなく、共に手を取り「共創」する世界を目指す人、幸せの「共有」を考える人に、本当の意味での豊かな人生がもたらされる時が来ているのではないかと感じます。
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